信じられないほどの勢いで世界が広がってゆくのがブログなのです、というのは一般論として知っていたのですが実際こうやって知り合いが増えたりするとインターネットおそるべし、と言わざるを得ないのです。
 ぶっちゃけこれを見ちゃったひとはその辺りにいる大学での俺的顔見知りよりは俺の内面をさらけ出されてるわけでありますか。まぁ誰が見てるかわかったもんじゃなく、むしろ不特定多数に見せている、という意識はゼロに近いんですけれどねー。どうせただのブログですから。だから結局は日記帳に誰にも見せたくないことをつづるのと同じ感覚なんだろさ。

 それはともかくとして、そろそろなんか知的とか文化的とか言われるような活動を再開しねぇとまづいな、という気分になりつつあります。なんかいつも出遅れている気分。知らないということがストレートに罪になる知の世界にもっかい潜り込んできます。インプットとアウトプットを毎回やろう、マジで。

コドモのコドモ (3) (ACTION COMICS)

コドモのコドモ (3) (ACTION COMICS)

ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(1) (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC)

ヤサシイワタシ(2)<完> (アフタヌーンKC)

 とりあえず最近はこのあたりを順当に読んでみたり。最近古今東西ノーマル18禁問わずゲームをやらなくなった、本も読まなくなった、これってどうよ、という自分の焦りが見て取れるチョイスなわけですが。
時と神々の物語 (河出文庫)

時と神々の物語 (河出文庫)

月と六ペンス (岩波文庫)

月と六ペンス (岩波文庫)

 今更ながらのダンセイニとかさぁ。明らかに駄目訳って言われてるけどなんか普通に読んじゃって自分って文見る目がないんですか? という気分にさせられたこれとか。

 どうでもいいかもしれないのだけれど、哲学とか文学なんかをやっている人間にはある種独特の美学があるように見えて、それに対する抵抗がずっとある。飲む、買う、打つを自慢げにひけらかす先達に心酔できない、というか。無頼であることに誇りを持ったとき、落伍した人間の語りは、知的優越のもとにその他大勢を見渡すガクモンっぽいものになるっぽい。そこになんかウソっぽい臭いを嗅ぎ取るのは気にしすぎ? そりゃあまぁ、自分の人生に誇りなんて持てなきゃ自殺するっきゃないかもしれないんだけど、落伍者だという自覚があるなら劣等感だって持っておけ、って感じですか? 表現者=コンプレックスのかたまり、である必要はないけどね! 太宰が受け入れられたりられなかったりするのは、彼はそうゆうコンプレックスっぷりが徹底していて、誇りながら落伍を感じていたいたぐいの「学のある」奴らからは敬遠されるとか。自意識過剰っぷりを自覚していれば普通に肉体労働者とかに対する劣等感はわき出ると思うんだけど、なんでみんなそんなに学がなさげな奴らを(対話、すなわち「学」的な行為なしに)あっさりと軽んじることができるんだろうか。まぁ、ほんとうにどうでもいいことなんだけれども、俺にとっても些細なんだけれども、情緒の不安定さを青年期のせいにしてとりあえずなんでもかんでも論うこの快感はとりあえずありなんじゃねぇ? とひとりごちてみる。