誰でも、って言っちゃわるいかもしれない。「誰でも」ってゆう言い方は自分が知らないことすべてをとりあえずなかったことにして、類型を拡げるから。それでもとりあえず「誰でも」といわせてもらいたい。

 誰でも自分のことをよりよいものだと信じたがる。自分を貶めるのは、本当はもっと自分が凄い、と信じたいからだ。悪口を言われたりするよりは褒められる方が気持ちいい。

 でもそうした自己のガードは周りの価値判断であっさり崩されるわけで。いろんな人たちが持ついろんな理想的人間像からはなれるたびに、減点式のテストを受けているかのように「俺」はどんどん価値的に下がっていく。まぁ、上下どっちがいい、とかそういうことについても別に正しい答えはなく、むしろお前みてーな奴に「価値ある」なんて判断されたくねー! と「俺」が思うときもあるけれど、少なくとも「彼」の価値判断に誤りはない。好悪の差はあっても、すべて主観はその*1「所有者」にとって正しいものなのだ。

 そんなふうにいろんな主観といろんな価値が入り乱れ、誰でもにとって明らかな事実の受け取り方なんかない世界で誰もが「ジョーシキ」を持っていて、あたかもそれが当然にあるかのようにいろいろ話したり意気投合したり嫌悪感を露にしたりセクースしたりする現実。最近、それがひどく恐ろしいけれど、素晴らしいものに見える。



 酒とか。煙草とか。マージャンとか。

 知識とか。学とか。技術とか。

 身体能力とか。顔とか。

 経験とか。慣れとか。



 並べようと思えばいくらでも並べられるささやかな劣等感をとりあえず全部「俺の熾烈なほどの上昇志向」っていう言葉に換言してみよーかなぁとか思った。醜くて汚い方が人間っぽくていい。ネガティヴが常にわるいわけじゃない。なぜなら、ポジティヴに自分のミスを受け流していたら次にも同じミスを繰り返すし。考えすぎも無駄ぢゃねー。ってこった。



 あ、バイト先で七千円くらいレジの会計で赤字を出したので給料がそんだけさっぴかれます。あはは。もうすぐ首か?

*1:所有者ということばには語弊があるけれど、象徴的に「所有」される「主観」を仮定して考えてみる、というプロセスを追ってみてほしい。ちっとはわかりやすいとおもうから。