luminous orangeがもう一枚とどきました。アマゾン先生遅れるのですね。嫌い!(幼女らしいしなを作りつつ)

シュガープラスティック

シュガープラスティック

 まぁそこまで期待してたわけじゃなかったのですけれどねー。でもあっさり感動してる俺がここにいますよコンチクショー。



 いちこーさつ。



 「哲学する」ことと「哲学」の間にある深い断面。



 学問としての「哲学」と、人格の一部であったりアイデンティティの一部であったり処世術であったり、とにかく実践倫理として現れてくるような「テツガク」はもうぜんぜん違っているという罠。

 この論法でいくと日本にはテツガクで食っている学者はいねぇ……たぶん。哲学研究者のパターン@この大学だと、大体原典を読んで解釈をして新書を書いて論文を書いて金をもらっているパターンが多い感じ。ていうか、権威っていうのはそういうところから生まれてる。殆どロースクールに通う学生みたいな感じ。高校時代の詰め込み式教育の方法論で哲学者の思想を正確に(学会という”試験”を貸してくる相手に媚びる「正確さ」――なぜなら、詰め込み式教育の方法論における最善はテストで最高の成績をとることで、それこそ問題を読み必要とされる回答を読み取るという難易度の極めて高いゴマスリではないか?)自分のテツガクじゃなくて借りもんの言葉を振りかざす。それは別に悪いことではないのだけれど、俺の役に立たないわけですよ。俺の。これ大問題。なぜなら、彼=研究者のためになる哲学は、他人=生徒にとってテツガクたり得ないのですからネ。当たり前の、同語反復じみた、こんなことを記述していて自分のことを馬鹿らしく思うのだけれど、日本にテツガクが需要があるくせ全くない現状を思うと憂えずにいられねぇ。

 つまり、実践倫理の主体として活動する自分を見せ付けて知的刺激を与えてくれる哲学者が大学になかなかいないんだよ! むしろ生徒とか、社会人なんかに沢山すぐれたこういう哲学者――テツガク者、と呼ぶべきか? は、いる。実社会で生きてるんだもんね、何かしら行為の様式みたいなものを自分の中に持っている(内面化)してなきゃどうしようもないさ。いちいち事態に対応するのではなくて、自分の中にある行動パターンから事態に最も適した対応ができそうなものを引っ張り出す、それが社会における人間の行為様式ってもんじゃないんかい? つまり自分からは自分が学んだものしか出てこないというか。それのつぎはぎこそが自己で自且つ個というか。

 正直な話、哲学を学ぶにあたって、全ての哲学の潮流にあたるであろう文献を、原典で正確に読まない限りは哲学を研究できている、と厳密な意味で言い切ることはできないと(俺ですら)実感はしている。何せ、あらゆる哲学者は先哲の思想をとりあえず引用したりしながら思想を発展させたり後退させたり、色々と試行錯誤をしてきたわけで、どの言葉に先哲の誰かの思想が含まれているかわからないからです(それが著者にとって意識的であるにせよないにせよ)。

 文系の学問において、関連しあう枝葉のような著作物の群れについて、何かひとつでも知らないことがあるならば、それは単純にその理論の不完全さを指し示す。ある視点を完全に削除している世界は不完全だ。「ある視点」で世界を見た『彼』が捨象されてしまう。

 ……結局、風呂敷の広げすぎなのだと思う。2000何年も時を重ねればもう把握できなくなってしまった事実がこの世界には歴史的に、可能性的に、存在しすぎている。哲学は途方も無い膨大な量のディジタル情報に翻弄される現代の社会状況とはまた別個に、やはり情報に振り回されてしまう存在としての人間の一様態を皮肉な形で表示する。

 しかしながら、捨象=忘れること、は人間がオーバーフローしないための最大の機能である。ここで俺は先哲を忘れる。そして自分なりの処世術でゼロから世界を記述する。ちょうどギリシアで、ミュトスからロゴスへと世界記述の用語法が転換したときのように、先哲の言葉に惑わされず自律をはじめるのだ。神話という根拠を根拠もなくかなぐり捨てた彼らを、歴史は謗らない。俺も謗られないことをちょっと願ってみるけれど、奴隷に労働任せて食う心配がなかった彼らと、そういう思想を練って値札付けて売らなきゃならない俺とでは事情が全く異なるし、たぶん無理ぽだなぁ、と思う。でもいつか自律してテツガクをしたい、その気持ちは持ち続けてゆきたい。

 もち、先哲の哲学がテツガクであった時代もある。それは認めざるをえないことだ。時代に即応したテツガクは、さぞかし同時代の人間の支えになり、時には足元をすくい、そして存在し続けていただろう。しかし時代は変わる。価値観は替わる。世界を存在せしめる人間自体が生まれて死んで入れ替わり、言葉は少しずつ意味が異なりはじめ、挙句の果てに新しい語彙が現れて記述できる世界の部分が増え、古い語彙が捨てられてもう認識できない世界の部分もまた増える。

 カオティック。だからこそ人間はそのとき主体が本質だと考えた部分=意味だけを抽出して言葉その他それに類する記号にする。これが抽象化で、ゆえに、人間の抽象化という行為はその成立段階から限界を内包する。

 抽象化=類型化と考えると、人間は結局「見落とす」=「忘れる」ことで辛うじてオーバーフローを避けているわけなのだ。そう考えると自然科学は忘れたはずの部分を思い出す=再発見する行為であり、科学というものがある以上人間はまだまだ何かを思い出す、ということだ。科学における思考だって言語や記号を使うから、また取りこぼしが出て、それをまた探求する。これもまた宇宙的天文学的な勢いをもつ哲学的探求の色彩を帯びるけれど、それは俺の話そうとか思ったことではないのでとりあえず閑話休題=捨象。



 さてとてと、こういうことを言っても哲学やってる人間は俺を気狂った奴みたいに見てくれやがるだけなのですよ。なら自分の実践倫理主体を示してテツガクを教えるような教師にいつかなりたいと心から思いますさ。

 西洋のテツガクは、古くなれば哲学化する。最初から形而上の話題をついつい扱ってしまう西田とかの哲学はどうしてもテツガクになれない。日本人がテツガクを打ちたて、それを学術的にも(同時代の人間が)認められるかどうか、ってのは実はすごく面倒な問題なのではないか。誰も気づいていないように見えなくもないけれど、なんとなく研究やってて「これ違うんじゃないかな」とか思ってる人はいそうだなぁ……



 とかいうトチ狂ったことを悶々と考えていた午前一時半。寝る。あと、学問でも何でも、とりあえず面白いのが正義だと思う、言い訳。