ねむいや。



 may the new year bring you happiness.新しい年が世界すべてに吐き気がするほど理想的な幸せを、これでもかと言わんばかりにはこんでくれるように、全身全霊で祈ってみる。





 そういえばほとんど読書をしない一年になってしまったような気がする。気がつけば一月につき二十冊くらい本を買っているのに、一度読んでは放り投げていた。俺にとっての読書っていう行動は一日のうちに同じ本を三度くらい読み返す→その中身をとりあえず会話に放り投げられる程度には暗記する、というものであるので、これはかなりヤバイ。自戒自戒。来年はちゃんと本読もう。



 とまれ、今までにほうりこんでおいた知識のせいで、新しく読んだ本でも「どっかで読んだな」的な気分にとらわれ、結局流し読み→読み捨ててしまっているという俺のものぐさ状況を改善すべきってことでせうね。あとはお気に入りの作家のよみなおし。

 …本ってのはおもしろいもんで、読んでいるときの自分の精神状態がものすごく内容の理解に関係してしまう。全く同じ本でも、読んでいる自分が変わっているのだから仕方ない。そういえば破戒を中一のときに読んだ感想と高三のときに読んだ感想とは全然違っていたり。昔死ぬほど憧れていた西尾維新に今あまり惹かれなかったり。

 思想にしたってそうだ。昔は自己中心的なキチガイにしか思えなかったカントを今はあがめていたり。見方ひとつで本の意味は変わる。解釈学ってほんとにナンセンス。「正しい」ということに何の価値があるんだろうか? むしろそれぞれの言説がいかに面白い知的刺激たりうるか、という尺度で学問を学問たらしめる方が俺は好きだ。まぁこれも個人の好み=人それぞれ、ですので、一元的に「みな学問をそういう価値尺度で考えろ!」とか言うわけにはいかないんだけれどさ。

 学問の蛸壺化のせいで総括して(総括、といっても、ひとりの人間が見ていられるだけの部分の総括のこと。部分的に解釈を他人に任せて最終的な決断を下す、とかではなく、最初から最後の一文まで自分なりの読み方でやってみれ的な。まぁたぶん無理ぽ)書物を見ることも出来ず感じることもできない不運をとりあえず無視していたいなぁ。

 セクト化がいつも正しいわけではないのです。まぁセクト化に一理も二理もあったりするけど、それだって結局は一面的だ。現実は多面的だったり、むしろ面じゃなくて線だったり点だったりねじれだったりして、見えてこないところもいくつもある。見えない部分が見える部分に影響しているかもしれない。俺はそれを知ることができない。バタフライエフェクトかよ的な。……それが面白いんじゃなかろうか。無知の知てそういうことなんじゃなかろうか。それを見つけていくのが科学の存在意義なんじゃなかろうか。まぁ俺がそう思うだけだけれども。



 自戒。読書を自分の価値に置き換えるな。趣味を自分の価値に置き換えるな。俺はとりあえず何の役にも立たない。だから役に立てるなにかを探せ。そのための大学だ。



 何か、ものを教える立場にたちたい、と考えている。それは、自分の「ものごとに対する立場」に金を払ってもらうということだ。金自体が幻想の産物だとしても、それが現実的な物質文明に直結しているならそれはモノだと考えてもいいだろう。だから、俺は自分の虚偽妄想色々ごたまぜにしたそれをぶちまけて金=モノを稼ぐ術を考えなければならない。そんなものを誰かが教養と呼んでくれたり知的刺激と呼んでくれたりしないと俺は生きていけなくなるだろうと思われるのだ。

 マジやべぇ。

 誰かおむこさんにもらってくれないかなぁ……そして家事やって尽くしたり野菜や米を作ったりして内助の功を極めたい。料理炊事洗濯なんでも拘れば誰にも負ける気はしねぇ!

 ……まぁそれがなかなかに難しいんだろぉな……





 哲学とテツガクの境目くらいは来年で完全に掴んで自分の文脈に加えたい。目標。乙。おやす。