やっほー面白そうだから混ぜっ返すー。割り込み失礼します。




 ①東浩紀の言う「反駁不可能性」というのは、「あらゆる言説=ものごとをある一面から考えて唱えられた説」に対し、「別の面から考えて反論とする説」が存在しうる現状と関連づけている話っすよね。つまり、「反駁可能性」ってのは「客観」の皮を被って普遍的言説の振りをしているけれど、別の考え方も存在できる、という可能性を内包している(むしろ全ての可能性を内包させられず、矛盾をはらんでいる、と言ったほうが正しいのん?)ものなわけであります。「その逆のもの」として仮定されるのは絶対的に主観の問題、つまり「俺はどう感じましたか」という問題なわけで。これは普遍的である必要はないらしい、と東は論じていくんですな。んで、ゆえに自分の感じたままのことをそのまま表現してもよく、誰かに「かくあるべし」なんて論破される心配もないものだ、と言っていくわけで。まぁ大筋ではそんな感じでは。




 ②そこにklovは現代社会の社会現象に現れる「客観」を持ってきました。現代の流行の学説によくある言い回しだけれど、つまり「パーソナリティは記号の組み合わせ」という決まり文句でもって、「客観」的に見た「パーソナリティの代替可能性」を述べ、「反駁可能性」と関連づけます。なぜ記号の組み合わせでパーソナリティが作り出せるか、という原因を「情報の氾濫」という現象によせ、言説が組み上げられて反駁されるプロセスを踏まえつつ「あらゆる情報によってくみ上げられる人格=あらゆる情報によってくみ上げられる言説」という図式をつくります。「反駁可能性」は普遍的言説の振りをするゆえに、それ自体の不完全な普遍性を他の言説によって指摘され、結果「反駁」されうるのだ、と。この仕組みと同じで、結局入れ替わることもできるようなパーソナリティの脆弱さを、klovは「代替可能性」と呼んでいます(と俺は思う)。そして、代替不可能、すなわち絶対的な主観において、パーソナリティは安定する。結果、自分なりの論を振りかざして打ち負かされることがない、「感動した・しない」という問題に終始する「感動系」が社会現象として現象する、と。ほい、これで反駁不可能なもの=代替不可能なもの、そして感動系の流れ、がつながるわけで。

 この辺は観念論ですわい。結局、揺るぎのない説なんて存在しない現在の情報状況においては、最後には自分の理性に縋るしかない、そうでもしないと自分の立ち位置がわからない……という話なのですね。村上春樹的でなんだか微妙だよ……(余談)。




 ③てことで「反駁可能性」と「代替可能性」が重なる焦点が見えてくるわけですな。



<主観的な領域で抵抗せず、客観的な領域で抵抗した場合、それも結局「代替可能性」の枠の中で抵抗しているに過ぎません。

<これも人々が代替可能性の氾濫に無意識に気づき、無意識に抵抗を試みて代替不可能性を求めている、という仮説が成り立てばの話ですが。




 というklovの言い方は極めてスマートだと思った。このへんは「自由からの逃走」とか見るといいんだろなぁ。フロムがこの仮説に対していい裏付けしてるよん<klov

 客観的な領域である「代替可能」なものを主観的な領域である「代替不可能」なもので拒否あるいは抵抗する、ということはありえない、と考えている(ように読み取れる)Reisaehreさんの考えだと、

『パーソナリティクライシス・アイデンティティクライシスの状況において、それでも人間は情報の取捨選択により組み上げたパーソナリティのみしか持たず、主観的な考え方には決して逃げず、「客観」的言説には「客観」的言説のみで抵抗しようとする』ことになってしまうのですが。

 主観にあっさり逃げる人間の像をすでに「感動系の流行」という現象の説明で描写していますので、その論法はこの文脈において論理的に破綻します。なぜ「客観は客観によってでなければ相克されえないのか」実例を示してください。「土俵違いではないか」という質問は、明らかに印象のみで語りすぎています。




 ④あとは「階層化」についてなんだけど……

 ちょっと待て、と言いたいのがひとつ。

 今言われる「階層化」っていうのは「一億総中流階層化」っていう戦後日本の(表向き)言いぐさを背景としているもので。階層分化が進んでいるっていうのは或る意味では日本人にずっとある中流階級意識に対するアンチテーゼっていうか警鐘っていうか、そんなもんなわけで。

 klovがやったのは確かに「階層化」の分析でもあるかもしれないけど、それはどっちかというとむしろ「価値観」の分析に偏っていると思う。代替可能・不可能の問題を階層意識に帰属させるということの意味は、確かに「自分の社会的な立場の確立」にもあるけれど、基本的にはパーソナリティの一部としての「社会的自我」を形成するための営み、と言えるのではないだろうか。Reisaehreさんはそのへんを指摘しているのだろうけれど……




<代替可能性に気づく原因それ自体が自分の価値観と言う代替不可能なものに立脚していることにより、階層化の例は代替可能性の例として不適、と言えると私は考えます。




 「自分の価値観」=パーソナリティ、とするならば確かに「自分の価値観」とは代替不可能なもの、です。しかし、あなたは他人に影響されて「自分の価値観」を変えたことはないですか? 辛いもの好きの彼氏とつきあってるうちに辛いものが嫌いだった→好きになった、という一例がうちの両親にあります(笑)。

 そんな卑近な例をとらなくても、「価値観」というのは情報の取捨選択により組み上げられて、そして「自分のパーソナリティ」を成立させるためのものです。ゆえに、色々な部品=情報が転がっている現在、いくつもの「価値観」が交錯します。「電波男」は「負け犬論」を否定しますね。その逆も然り。これが既に「価値観とは代替可能」だということを示しています。「価値観」と「パーソナリティ」は別です。あなたは誰かの意見=価値観を否定できますがその人の人格を否定することはできません。これが反駁可能性と反駁不可能性であり、代替可能性と代替不可能性でしょう。「価値観とパーソナリティの分割、あるいはそれらは同一か」については色々異論があると思うので、俺としてもこういう風に言い切るのはよくないと思いますが……人格=理性の代替不可能は本論において「感動系」の例により解説されていますので、そちらに便乗させていただきます。機会があれば論じます。

(人の人格を否定できない=それを行った時点でその人の人格の存在を肯定している、という言葉遊びが成り立つのは面白いところですw)

 ということで、Reisaehreさんの反論も適当ではない、と俺は考えるのです。




 ⑤で、階層化→社会的ポジションづけによって自分が誰かに類型化されていることを感じる、というklovの「ふと思いついた」プロセスは、確かに強引だけれども一理あると思います。

 結局「階層化が進んでいるよ」という言説を内面化した結果、類型化されて処理されうる自分の側面に「気づく」というのがキーワードなのだろうな、と読みました。

 その結果、集団の中に帰属している意識が生まれ→自分の立ち位置の把握につながり→「相対的な自分」というパーソナリティ中の一成分を把握し→存在が安んじられる。まぁそんなふうに。
 大事なのは「気づき」=awarenessですな。どっかのお偉いさんの説にあった気がするけどわすれた。




 ⑥あと、「垂直」「水平」という言葉の問題なんですけど、俺は全く何が垂直で何が水平なのかわかりませんでした。よければお二人にもっと説明をお願いしたいところです。なぜ階層が垂直だったり水平だったりするのでしょうか。表現上の問題なのですか? たとえば所得上の違い(優劣がはっきりした違い)を垂直、政治的思想の違い(優劣のはっきりしない違い)を水平、としただけ、とか。まぁ所得と政治思想は結びつくんですけど。そのへんはX.Yの数学的記号だと考えてください。すいませぬ。





<また、本筋とは関係ありませんが、私は現在の状況を階層化が進んでるというよりは、分化が進んでいるとみています。

<階層化という垂直方向に並んでいくものではなく、水平方向にどんどん分化しているのです。

<情報化による情報の取捨選択を受けた教養の分化を考えると、絶対的な価値に基づいた垂直方向に並んだ層と言うのは考えづらいように思えます。

<このことは、平成七年の時点で浅田彰が「大学で何を学ぶか」で指摘している通り、ヒットチャートやスポーツ選手の情報が、いわゆる学問的情報と拮抗しうる時代が到来しているということ(例えば、本を読んでると気味悪がられる場合があるように)からも導ける見解だと思います。




 これについては、階層化云々よりも価値観の差違の論において取り上げられるべき説のような気がしてなりません。今行っているこのような議論が成り立つことすらも、「価値観・解釈に多様性が許される」=「情報(価値観)過多の」現代社会、という構造の中に含めようと思えば含めてしまえるでしょうから。





 というわけで、階層化=集団的なもの、からパーソナリティ=個人的なもの、に話を変えてみた。これも代替可能性の話にならねぇかなぁ<klov。エリクソンとかその辺かもね。あとドイツ観念論全般とフロムと、そのへんを読んでくるとこうなるかも。一読どころか三読くらいをすすめておく。「大学で何を学ぶか」も一読。読む本多くて困るねちくしょー。