を感じて気分は糞食らえ。ねむい。

 昨日から今日にかけて二年ぶりに高校時代の先輩二人と会う。多分人生でトップクラスに濃い時間を共有したり過ごしたりしたひとら。それまできっちり二年間お互い完全に音信不通だったのに、いきなり連絡とりあっても会って屈託なく話せる友人っていうのは稀有だとおもう。

 まぁ勿論徹夜で帰筑して授業に出るわけですが。単位死守。



 先輩んちでDVD鑑賞。陰陽座の黒猫は萌えた。さりげなく人妻属性が付加されているあたりマニア心をくすぐる設定。巫女だったり声優だったりヴォーカルだったりするなんて! それなんてエロゲー? と問いかけたくなりますた。我が屍を越えてゆけー。



 オボエガキ



 うまいくいもん。服。車。

 男・女。仕事。

 まぁ所詮食欲と性欲が(くいもんと男女)あって、それを満たすための道具として服だの車だの仕事だのその他社会的ステータスをくっつけてくれるようなものを欲しがるわけですが。ああ素晴らしきかな欲望。基本的に自分ひとりで満たせるのは射精欲くらいで、決して愛欲は満たせないあたり世界は無駄だらけにできているとおもいます、ハイ。チューハイはソフトドリンクにも満たないらしいですよウッハー!
へルビーストとホラービーストの区別が未だにつかない19歳です。

 とかくこの世は住みにくいと漱石も言っていますが住んだり生きたりしないことには生きていけないわけで(当たり前か何そのトートロジー)。どうやら生きるには自分を高く高く売りつけるのが一番良い方法らしいのです。でも酷いことに、何をしていても格好良い奴と、何をしていても格好悪い奴しか世の中にはいないのです。さくらの唄の例えで言えば、主人公の姉がヤクザにレイプされた後に街を歩いて帰るシーンで、顔が綺麗でスタイルがよければスカートから見えているストッキングの足に精液たれていても汚いというよりカッコいいと思えてしまうヨ、と姉ちゃんを見て盛り上がるヲタクと思しき大学生どもの台詞に集約することができますか。(※穿った例えだヨ!

 全ては後天的に付け加えられないものできまる。つまり顔とスタイルだ。それらがいいと大体どうにかなる。少なくとも、何をやっていても無様にはみえないのだ。それすなわち、常に自分の価値をある一定の水準以上は高く売りつけることができている、ということだ。「でも、顔はいいんだよな」というのは、そういうことだ。必ず最低ラインは確保できる。くぅう……社会の底辺から抜け出したくてっっ……

 逆に、顔の持ち主であるところの本人すら生理的に受け付けないほどの顔とスタイルを与えられる者もいるわけで。あは、俺☆ そういう人間は必死で付加価値をつけようとするのだけれど、やっぱり顔が汚いから無様だ。あは、俺☆ 努力は、ある程度顔が良い奴がやらないと美しくすらならない。そうなると、俺には才能もなく努力する権利もないような気がするのだ。自分を鏡で見るといつも無様だ。それでも何かせざるをえない、というのは、やっぱり俺もよりよく生きていたいからなのだろう。それを望むくらいはいいんではなかろうか。

 でもやっぱり高く高く売りつけることはできなかったりする。スタートラインが低すぎて、化粧のノリが悪すぎる。素の自分を出せばニーズに引っかからないのは分かっているのに素っぴん以外がつくれない最低のスペック。あげく食い物にも服にも車にも恋愛にも仕事にも大して興味はなく経験もない。つまりフィジカルにもメンタルにも無用の長物。死ねばいい。

 そういう悪い自分を死ねばいいと思えば次につながる。人生を止めるのではなくて、そういう生き方をする俺に「死んで」もらってもうすこしマシになろうとする。

 めざせポジティヴ自己否定の倫理。こわせねじれた自意識過剰。結局は何の救いにもならないけれど「死ねばいい」と呟いているときだけは安心していればいいのだ。嘘。



 実はブログで日記を書いて知り合いに近況報告することが嫌いだ。生理的に。

 実はブログで雑記を書いて不特定多数に自意識を撒き散らすことが嫌いだ。生理的に。

 そういう一連の行為をしているひとは好きなのにそういう一連の行為は嫌いだ。生理的に。

 もう綿密な論理構成とか関係なく、俺は個人的に生理的にブログだとかネットだとかの世界の在り方が苦手だ。とことんそのネットに依存しているくせに。

 要は自分のノートに書けばいい。レスポンスの無い世界で自慰を楽しめばいいと思う。反応が返ってくるかもしれない、なんていう甘美すぎる期待をしてはいけない。

 これからはできる限りそうしようと思う。

 ブログを書けば安直に何かを発信しているような気分になる。止めれば良いと思う。出版なら死ぬほど校正入るだろうに、ただ書いて「内容を登録」ボタンを押すだけでオーケーなお手軽さ。自分の価値が高まったかのように錯覚できる。何か文章を書き残すというのはそういうことだ。記録に残った自分が、記録に残らない時間に依存した流動的な存在としての自分と区別されるとき、記録された自分は流動的な自分に帰ってきて、流動的な自分の存在確認を(刹那的に)行うような気がする。それすなわち、自慰で示威だ。なんで流動的か? そりゃ時間とともに俺の考えることはコロコロ変わるからです。書いたことは消したりしない限り変わりません。読み方は変えられるかもしれないけれど。書き手に「あのときはこう書こうと思ったな」と思い出させることができれば、文章の意味は不変だったと(主観限定で)いえるのではないかと。で、それができれば流動的な俺を固定する記録された俺が存在開始するわけですよ。キモーイ。

 たとえばこういうぐだぐだを書き連ね、誰かから反応がある。この時、自分の価値はうなぎのぼりに上がるだろう。もちろん自分主観限定で。でも金のかからないところでいくら論を張っても絶対に屑ですよ? そんな屑に反応返していると自分まで屑になっちゃいますよ?<ALL

 他のひとらはいーけれども俺はダメだ。理由はないがそう思う。理由がいるなら後つけで、↑ということで。つまりは俺は顔がダメだから全てダメなのだ。発想が貧困!



 ちなみに、↑はぜーんぶ俺の嘘かもしれないし本当かもしれない。ブログってマジ楽しいね☆ みんな良いヒトばっかりだし☆ ホンネもタテマエもここではなくて正直になれるネ☆ 正直反吐が出るゼ☆