there's nothing for me here, so I will disapper!

 たったこれだけの言葉を切り出してみる。まるで絶望か失望のようだ。ビートルズをこうやって聴いてきた自分。深読みしすぎなので気がめいる。けれど、こんな感情に襲われることなんて日常茶飯事なのが人間ってもんじゃねぇの?←一般化ktkr



たまにのオボエガキ



 取るに足らない失望が大事なものすら捨てさせるのは、もったいない。

 そんな悲しい出来事は、だけれどもありがちだ。人の心は秋の空、くるりくるりとかわっていく。軽薄な心変わりで、いくつも捨てられてつみあがっていくプライドの山。そんなことを、誰もが経験してきたとおもうし、繰り返して生きていくのではないか、ともおもう。だけれど、誇りを捨てて楽になる、というのは、時には卑屈になりすぎてしまうことにもつながってしまうし、なによりそれまでの自分に胸を張れないのはもったいないと思うのだ。



 そうゆう絶望のテンプレートのうちめんどうなのは、大事なものだからこそ、傷つける前にすててしまいたい、と思ってしまうところだろうか。

 たとえば、老いさらばえ醜くなる前に死にたいと願い。

 たとえば、老い衰え弱くなる前に引退したいと願う。

 幸せの絶頂を続けたい、という願いが、絶望につながる。

 なにより、自らのゆずれない大切な部分=大事なもの、が劣化したら、それはもうあまりに自分にとって痛すぎる。

 たとえば、醜くなった美しいひとは自分の醜さに果てしなく傷つき、

 たとえば、弱くなった強いひとは自分の弱さに果てしなく傷つく。



 それまでの自分がなによりも大切にし、尊く思い、拘っていたものこそ、捨ててしまいたくなる瞬間がきっとあるのだ。

 今まできれいに書いていたノートが雨に濡れたとたん、丁寧に書かなくなったり。大事にしていた自転車に大きな傷がついてしまったとたん、乱暴に乗り回すようになったり。たとえば、ささいなシミのせいで価値をなくした美術品を、思い切り引き裂くことにカタルシスを感じる。その感覚が理解できるなら、あなたはきっと絶望に足を踏み入れる準備が整ったひとなのだ。

 それが、もったいない。



 泥臭く*1自己研磨を謳う人は、実はすごく早く(取るに足らない)絶望する。自分の求めるレベルを高く高く設定しすぎて届かず、それまで遮二無二やってきた自分をあっさり否定し、また新しい高すぎる目標を設定して、届かず……もしかすると、先ほどまでの自分を放り投げないで、踏み台にして飛べば届いたのかもしれない目標に、いつまでも触れないままでいる。目標だけは高く、地表には打ち捨てた建造途中で放り投げたいくつもの楼閣。有限な時間に焦り、才能と環境のせいにしても埋められない雲の上の先達との差に愕然とし、また自分を否定して、それまで積み上げてきたものを放り捨ててしまう。

 こうして、根拠のない自信を打ち砕かれていく過程に、絶望の甘いワナがひそむ。なにせ、「努力した」という美談はきっと絶望した自分に言い訳をし、落ち着かせてくれる最高の嗜好品だし、「努力している」自分に酔うことができれば自己研磨そのものは達成できなくても少なくとも自意識を慰めることくらいはできるわけなので。



 で、こうやってプライドをどんどん捨てて=自己否定とかいう自己研磨をしていくことを「努力だ」「泥臭い」「俺がんばっている」といって正当化する。もったいなくて反吐がでる。

 本当に努力したければ、つい冷静になって見つけてしまった、かっこわるくて、絶望してしまうくらいどうしようもなくチンケな自分をこれでもかといわんばかりに認めて、もうだめですよ俺、だから努力しますよ! なんてやるのはやめたほうがいいかもしれない。現状を把握するのは大事だけどそっちに引っ張られすぎ、無理だよそんなハイレベルなことwみたいに冷笑しながらあきらめてしまう羽目になりがちだから。

 いや俺は本当はこんなにすごいもんねー、と開きなおって理想を現実にすりあわせてみろ。やってみれ。毎度毎度スタイルを変えるのはただの逃げ、毎度毎度趣味を変えるのはただの器用貧乏。自分の弱さや至らない点をハイハイ言いながら認めて悪いとこ探しを始めてしまうのは馬鹿。それで、どう解決するのさ? 弱点がわかっても、わかっただけじゃあ何にもできやしない、弱点を「どう変えるか?」っていう理想からのトップダウンがないと動けない。でも、そんな理想像=プライドを、一回一回捨てているのは誰なんだろうか? ひとつのことに徹底して、時間と労力を注ぎ込み、本気でやって認められなかった、というのがなにより怖いということに気づかないようにしている、そんなヤツが、捨てるのだ。



 わかっている。やろうと思えば誰だって何でもできて、ただ「やろうと思える」人間が限られている、ということは。誰もが、どうしても安全装置をかけてしまうだけなのに、それ以上に踏み込めない。雲の上の人たちは、やっぱりすごいひとなのだ。

 なら、もう開き直っていこう。一度抱えたプライドは、全部墓までもっていこう。根拠のない自信に根拠をつけてやるための結果を用意しよう。すごいひとたちには今もまけっぱなし。自分の土俵は土まみれで、取るに足らない失望をひっつけたまま、不完全な俺はきょうもゆこう。きっと大丈夫。やっぱしだめだ自分、と思うときはあっても、丸ごとひっくるめて存在そのものを無理やり肯定しながらとりあえずらしく生きればよい。それでなんとかやっていけるなら。それでなんとかやっていけないほど世界がひとに甘くないわけじゃないから。









 ……そして本音をゆうと、コンプレックスと向上心のかたまりであるところの俺みたいなヤツは、やっぱりすごくなって+人に認められて、ぶいぶい言わせたいぜーなんて思っているプライドもしくは虚栄心を肥え太らせタイガーなわけですが。

*1:自己研磨というのは、俺にとっては「自分ひとりを磨く」ではなく、「自分を磨いたことを他人にもみとめてもらえる」ものっす。つまりは結果が伴わないとむなしい、というか。努力そのものは大事ですが努力が自意識満足のためだけに働くならそれは無意味です。周りに対して。