「誰だって〜〜くらい」というたった一つの構文で世界は破滅。

 コインの表と裏がつながって確率は崩壊。



 わりとそんなもん。





 最近わかったことがある。人間よりも人間関係のほうが怖い。(いまさら!

 人間そのものよりも人間がかかわっているある場においての、その人の果たす役割が、怖い。関係内での立ち位置の違いが怖い。個人なんて集団のなかでは消えますか。海は死にますか。山は死にますか。対人より対関係、恐怖症。ふぉびあ。あーこわ、あーこわ、まんじゅうこわーいww



 独占欲はどこからやってくるのでしょうか…たとえばイケメンはそれを必要とするひとたちの共有財産にしておけばいいんじゃないでしょうか(それだと男の「自分遺伝子ばらまきたい」本能と女の「優秀遺伝子よこせ」が両立できねーかなぁ)…でもそうなると優生学ってこわいなあ…notイケメンは淘汰対象になるんじゃねーの…遺伝子レベルの差別だよね、顔や体型で好みを言い合うのって。ある意味社会差別だとかよりも程度がわるいよ。人種差別だって社会差別の一種(まぁ遺伝子起源だけれども、社会的扱いの差別は社会において解消しうるので社会差別に加えてみる)だけれども、外見特徴で「よしあし」決めるって相当根が深い差別だよ…でもそれって価値判断か。審美か。なら価値判断と差別のちがいってどこにあるんだよぅ。もしくは価値判断の結果「劣る」とされたものを差別する結果があるだけなんか。うわぁ人間の行動と差別って不可分だ…もういいや。なにもかも同じとしてしか見られないより、ある程度別のものを理解しなければならないなら、その区別をするために行うべきは差を見つけることだったのかもしれないし。なぜ「違い」と「差」はこれほどに近い意味をもってしまったのだろうかね。もっと「違う」意味で存在していれば、人間の思考における区別と差別の意味的距離が近くなることはなかったのかもしれないのに。よりよい世界があったかもしれないのに。他の言語だとどーなんだろ。



 美的実存のなかで生まれて老い病み死にたいものだが、そうはいかぬが浮世の憂き目。可能態に留め置かれた世界の多さがあまりにもさびしくて1人でせきをしてしまった。