純粋なもの、うつくしいものが少しずつ経年変化だとかそういうもので腐っていくのがいい。元はすばらしかったものが抵抗のしようのない時間という残酷なものに翻弄され、本質を失っていくのはきわめて陰気で淫靡で愉快である。もしくは発酵とおなじように、経年により人間にとっては価値のさらに高いものに変わり、ある微生物にとってはただの排泄物の塊になってしまったりするのも皮肉でいい。

 乾いてさらさらしているものが湿って粘つきはじめるとき、わたしの記憶のなかに残っている「さらさらしていたイメージ」を現在粘ついているそれに無理やりあてはめて、劣化・堕落の香りをかぎとると、えもいわれぬ感傷をかきたてられる。

 世の常ならぬを感じ入っている、というわけではない。諸行無常のはかなさを詠嘆するのみでは、腐乱の意味はわたしにとっての身近なものとして感覚できない。常ならぬながらも、変わり果てた姿で残り続け、人でいう「生き恥をさらすような状態」になってしまっているのがすさまじく思える。いっそのことその存在を消して、なかったことにしてしまいたいほど醜いものに落ちぶれてしまったさまが痛快で仕方ない。



 その一方でうつくしいものはうつくしいままにありつづけてほしいと心から願う自分も存在する。うつくしいものはどのように在りようが変わっても人に大きな質量を持って迫るのだ。たとえ、腐っていようとも、そうした一定量の衝撃というものは残存しうるのだろうか。



 んなのわかるかよボケ。





 ところで競争原理ってなんだっけ。競争原理について考えているうちに「競争原理について考えるような奴=それこそ競争原理にのっとって適材適所で窓際ポスト」とゆう実際問題そうゆう状況ですよね的自覚が芽生えたり。「人事権」持ってる人らに打撃食らってよくてニート下手すりゃ首くくりが丘だからみんな敢えてそゆこと考えない、というやらしい社会構造維持用の構造が、いまここにある危機。おまいら考えろ!



 ある意味競争原理は資本主義のシステムの根幹でもあるからそれを批判するには社会主義的な思想見地をもってくる必要があるかもしれん。だがしかーし、社会主義って貨幣経済自然淘汰イクナイ的流れではあっても「貨幣経済自体を否定」してないし、その社会に根ざして茎つけて花咲かすから結局は資本主義原理っすよね? とか。あれ、それだと単なる修正主義なのか? でも社会主義が成立した根っこは資本主義なんだよ! (思想家はブルジョアジー、だって本使うからね! 本の流通・供給は資本主義に拠ってたつ。思想の流布もね。そうなると、自分の考えを伝えて革命をするためには金払ってその思想のテクストをどうにかしなきゃいけないのだ!)

 「適者生存」の生き残りを運用するのが資本主義、淘汰組を必死でかき集めるのが社会主義、そも差をなくすのが共産主義かもしれぬ。

 そう考えると日本的悪平等はうまいぐあいに競争原理に対抗して一億総中流意識と絡み合っている『ふり』をしたわけか! 結局は狂騒じみて競争させているくせにおまいら一緒ですよとのたまって「競争原理」から目を離させるFUSIGIなHANASHI。

 こんどはちょっぴりお金についても考えたいでつね☆死ね☆プロレタリアートもインテリゲンツィアも時代遅れのロザリオと同じくらい非科学的に見えまつ☆