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そこまでイマジネーション豊かじゃねぇっつの。
「継続は力なり」って言葉に力=正義っていう背景的な意味を(無理矢理にでも)読み取ると非継続はすなわち怠惰、悪ですね。
挫折する人間の挫折の理由を吟味しないで非継続を否定されると困りますね。
むしろやむにやまれぬ理由が襲いかかってくるのが人生だと言いたくなりますが、うまく継続できてしまった人間からすれば「自分にはできた」っていう事実がありますので、継続できなかった人間たちを実力・根性がない、として貶めるに足る根拠を持ってしまうのですね。
なんでも象徴の不完全性に還元するのは馬鹿みたいなのでやめておきたいところですが、やっぱり自分の過ごしてきた「来し方」から「生き方」は離れられない気がしました。成功した人間に成功しなかった人間の気持ちは一生わからないし、わかった気になるのは傲慢でしょうね。そして、「成功」の意味を深く吟味しはじめてみれば、何が「成功」で何が「失敗」なのか、人によってそれぞれ異なってくるわけで、挙げ句の果てにはそれぞれの体験の相互理解なんてあまりにも深く遠い道のりになってみえてくるわけで。
それを埋めるために言葉があるならすばらしいと思う、というのはここ一年くらいずっと掲げてきた自分の生き方選び=将来設計の目標ですが、たまにその相手のばかでかさにひるみます。へこみます。くじけます。ひとりはいやだ。むりだ。でもだれかといるのもむりだ。
なにしろ、言葉なんて抽象的すぎて目標にするにはあやふやすぎる。
それ以前に、この目標を達成したけりゃ自分ひとりで思い悩まずに誰かと話しをして言葉を交わしていかなくちゃだめだよね?
言葉だけじゃ伝わらないならそれ以外、すべての人間ができうるコミュニケーション手段を駆使してでも分かり合う努力をするべきだよね?
じゃあこうやって悩んでいる(もしくは悩んでいる振りをしている)俺は何?
むだすぎる。
そういう無駄がないと人間は下らないような気もしますが。
どうやら時間は無駄を嫌うようです。
こうやってうだうだ考えている時間が、もしも目標に近づくための一歩であったのだとしても、現実の問題が解決されていきません。むしろ解決のための時間をこういう思考に使えば使うほど、問題解決は遠くなります。
現実にげたいにげられない。