それは結局自分の欲望を妥協するから難しいのかなー。本当のところどうなのかわからない。



 ディズニーランドについて考えた。

 吐き気がしそうなほどに愛と夢と魔法が入り乱れ、人間の暗黒面とも言うべき感情は全て抑圧され/排除され、誰もが子供に戻って無邪気に(無邪気すぎるほどの無邪気は、ときに醜悪)遊べる場としてのアミューズメントパーク。

 そういえばどっかで誰かが「ディズニーランドで女子供が喜び、男がおもしろくない顔をしているのは、男がディズニーランドに嫉妬するからだ」とか言ってましたね。その理由は、男は自分の妄想に至高の価値を見いだすので、ウォルトの脳内世界の具現化と言っても良いディズニーランドより自分の脳内世界のほうを優先するらしいです。んで、たとえば彼女がディズニーランドで屈託なく楽しく遊んでいるのを見て、嫉妬に駆られるらしいです。なんていったって、自分の妄想ではなく、他の男=ウォルトの妄想に夢中になっているのですから。一理あるなぁと思ったりもしましたが、実は小さい頃から何度もディズニーランドに行き、遊び慣れている自分としては、ディズニーランドの世界観が体と心に染みついていて、あの世界を受け入れることが可能になっています。なんて、グロテスク。そう考えると、俺と俺の家族を何度もディズニーランドに駆り立てた両親はかなりの博愛主義者(まあ教職だから)、もしくは自意識が希薄な人達なんでしょうね。いや、自意識希薄は、ないわ。



 それはともかく、ウォルトは世界に広まるために、自分のあるいは人間の暗い面を捨象して、ディズニーランドをつくりました。きちんとリアリティを持たせるために悪役をつくって、そして悪役が正義に必ず負けるようにして。

 資本主義的な視点から見ても、思想史的な視点から見ても、ディズニーランドという存在が現代社会に投げかけている問題は極めて大きいでしょう。

 ディズニーランドはアメリカの象徴であり、さらにウォルト・ディズニーというひとりの男の妄想であり、資本主義であり、ベルトコンベア式に出てくる未来的食料供給形態であり、オリエンタルランドであり。あらゆるものを強引にメタファライズさせてしまえば、近代→現代に至るまで社会が抱えている病理がかいま見えてくるでしょう。

 それもそのはず、ディズニーランドはただのパークではなく、自分たちが産む価値観をゲスト(客はディズニーランドではこう呼ばれます)にも「すばらしいでしょう? たのしいでしょう?」と植え付け、リピーターをつくり(洗脳完了)、再帰的に自らの価値を高めていくネズミ講のような(鼠かよw)機構すら持ち合わせている、一種の社会構造であり、一種の文化体系であるのですから。



 そういえば本来、鼠のまき散らすものは、死に至るペストでした。

 今強くて明るい人気者になったミッキーマウスが世界にまき散らすのは、つらすぎる現実・近代的自我の問題から眼をそらし、つかの間の夢に浮かぶためのコカインのような刺激であり、もしくは、やはり敗血症で最後に人体をむしばむペストと同じような、甘すぎる雲の上で漂い続けるための「場」であるのでしょうね。



 どうでもいいのですが、上記した、ディズニーランドの文化体系とその増殖方法は、ある植民地に対し圧倒的な民主主義という快楽をもたらして一気に征服=思想的強姦をあっさり行ってしまったアメリカという国に酷似しています。お国柄ですか?



 鼠の王国についてはまた書くべきことがあろうと思います。