抗生物質には外出を阻害する成分が入っていると思います。朝外出が億劫になり、昼外出が億劫になり、夜外出が億劫になる。結果として食事ができない! 生きるために一応買い物に行くのですが咳が止まらないので周りの迷惑になることしきり。生鮮食品売り場に病原体をばら撒きながらも自分のための食料を確保して止まなかったり。もう慣れたとはいえ一人暮らしは難しい。料理に凝ったりインテリアに凝ったりできるけれど、その分時間はいやおうなく食いつぶされる。結局自由に使える時間なんてものはなくて、何かとやらなければいけないことに費やされ、どうしようもなく俺の蝋燭は短くなっていくだけだ。さて何をしようか。何をしていれば俺は燃え尽きるときに納得できるのだろうか。どういうことが俺にとって有意義で、蝋燭の蝋を消費する燃焼するその火に代えてよいと思われることなのだろうか。
ハイデガーの言う「死への存在」にちかい。まだ俺は死んでいない、生きているなら死んでいることを体験できない、その癖に、予定されている死に対して思いを馳せることができる。「余生」という言葉があるけれど、ある意味死ぬことを意識したときからすべからく人間はそのひとにとっての「余生」を生き始めるのではないだろうか。余った生の時間とは生物的に生きる時間と分割された人間に固有の生の時間だと俺は理解する。そこにおいて俺はたぶん自分の到達点を概算する。残り時間、残り才能。努力に費やせる時間も娯楽に費やせる時間も結局は有限だ。だから俺には到達できない高みというものがあって、到達できる段階というものがある。あらゆる人間は時間のなさから逃れられない。すべての思索という思索をもてあそべるようなアビリティを持ち合わせていても、1000年ひとつのものごとについて考え続け、深遠な答えを出してみることは生物的な時間制限によって不可能にされてしまう。
こうした問題を解決するため、きっとひとは書物を生み出して考えを蓄積できるようにしたんだろうなと俺は思ってみる。=一生をかけて命を削って到達したある種の結論や研究結果をダイジェストで見つめなおし、思索の種とできるようにした。しかし、書物にはそれらの生み出された過程において実はもっとも重要であったかもしれない試行錯誤が欠如し、きわめてまっすぐな論理展開、きわめてわかりやすい結論だけがある。迷走は(殆どの場合)削除される。それをひとは推敲とも呼ぶ。
推敲されない文章はきっと読者の時間を多く多く削り取ってしまう。しかしながら作者の歩んだ思考的過程をきわめて詳細に辿ることは、また有意義なのではないだろうか。現在多く存在しまくる書物とかいうものはあまりにも整然としすぎていて、効率よく思索の種をゲットできてしまうもののそうした無駄な娯楽性+それから生まれる奇抜(便宜上の意味。奇を衒うという意味ではなく、一般的から逸脱した興味深いものという意味で使った)な思考をさえぎってしまう。もちろん今はこのどちらかを選ぶ余地はない。俺は書物を弄ぶ。いつかタイムマシーンができたらその時その時、その場所その場所、その状況その状況で移り変わりゆく何かしら考えたひとの考えをリアルタイムで体感できるのだろうけれど。

俺の限界はちかい。けれどそれはひとに普遍だ。お前も限界になれ(ぇ