昨日から今日にかけて「小説をドライヴする」というドライヴの意味についてちょっと面白げな会話をした。大学の死ぬ程面白いことをゆう先輩による講釈を聞けたのだ。とりあえず幸運。ドライヴという単語は「お前が小説を書かなければならないという気分になる理由」で、また、「物語を物語として形成する能力」で、とりあえず多元的な意味を一気に含んでくる、らしい。車でたとえるならたぶんそれはエンジンをかける鍵であり、ただ走るだけで道の上を走れない車のためにハンドルを握ってそれを運転する力、だ。
じゃあ、作家はどのようにしてドライヴを手に入れるのだろうか? ライティングテクニック的なものはたぶん練習で手に入ると思う。しかし、動機はどこからやってくるのだろうか。もしくははじめから動機なんてものは備わっているのか? そのあたりで結局俺は俺意見を作れなくてふてくされて寝てしまったわけで、今になってなんとはなしにそれを思いついてみて、ゆえにはてなに書きなぐってみるのだ。たぶんそれは執着だ。愛憎とかそんな下らない二元論で片付かないほどにそいつ=作者の中で渦巻きまくるなんかでっかいカオスとかそんな感じのものが、ある対象に対して書かずにはいられない、ある対象に固着せずにはいられないような執着を生み出すのではないか。少なくとも自分は、文章を書いていてカコイイ…という自己陶酔のキモチヨサとかそういうものに対する強い執着と、何か自分がどうしようもなく書いてみたくなるものに対する微妙な執着を織り交ぜて何か文章を書いてみようとしている。そりゃ自分みたいな糞以下と他の神以上の書き手を同一視するのはキリスト教におけるユダくらいには罪だろうけど、俺にはそういうふうに見えたから仕方がない。たぶん。俺が好きだった作家も大体は何かに執着して作家を続けていたような気がする。太宰は自己否定に執着したり三島は自己の作品の否定に執着(自己の現状を切り捨てて理想への執着)を続けたように見えるし、川端は自分の奇妙にゆがんだ日本の美に執着し続け、もっと時代を戻して明治なんかになればほとんどの作家は西洋的論理への進化と日本がその「進歩的」論理によってどんどんひびわれていくことを同時に表現していくことに執着した。森とかまさにそうだったり。そりゃアプローチの仕方は中島みたいに古典から緻密な翻案やったりで夏目みたいにゼロから作ったり北村みたいな評論やったりとさまざまだけれど、文学で何かを変えるということに執着して、世人に伝える必要性、表現する可能性、それぞれにまた執着していたという点ではけっこう類似していたりもしなくはないのでは?
こんなのはアブストラクトトゥルース(ついでに普遍)なのか単に独断と偏見なのかそのあたりの区別も結局わからん話なのだが。ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「語りえざることには沈黙」しなきゃならぬらしい。すべてのことは言葉で語りえると考えた彼が最後には沈黙にたどり着くということ、それは、結局人間の語彙は感情を表しきるには足りず、言葉にできないが人間が認識できるという領域の存在をあくまでも「言外」に示唆していたわけで。そういうふうなことを微妙に考えてみると、文学に対する執着なんかはまさに創作意欲とかいう安易な言葉で一緒くたにくくれるものでもなく、なんか黙り込むしかないけど、なんか、あるよね。のような概念なのだろうなぁ(詠嘆)。それらの中にある共通点とか、相互の影響の名残とか、微妙にふれあう接点を見出してできるだけ具体的になるよーに言葉で書き直してみるのが類型化ってものなのだろうか。本当に俺はガクモンっぽいことわかってない。高校時代わかった気になってみることはできたんだけど。ま、これで大きくはずしてはいないだろうなとか思ってみながら飯食って寝て性交相手探します。これ人間合格証明書。

ていうか類型化ってある意味ステロタイプってゆうか偏見をつくるだけだよねー。信じられなーい。とか思ってると本質を分析するタイプの奴から文章をひたすら解釈する研究家になっちまう! 萌え(笑!