仮免うかったんだよ畜生! こないだは学科だけで落ちるとかゆう糞恥ずかしい目にあったんだよ畜生! だから今日は学科と原チャリの教習のみで帰ってきたよ畜生! 語尾に畜生つけてると心がどんどんずんずんすさんでいく気がするのでそろそろやめたいぜ畜生! 自動車学校の休憩室においてあった「あずみ」はなんで五巻から十巻の間だけ抜けてるんだろう……あ、あの人(イケメン)がもってったんだ。今読んでるし。畜生!(やめれ

とりあえず路上がちかくなりましたことを報告しますが日にちが足りない故夏休みのうちに免許はとれない俺なのでした。せめてレポートとかそういった課題は完成させねば……あー頭悪い自分が嫌い! 頭いたい自分が嫌い! そんな自己嫌悪ぶった自分が大好き! そんな自意識が嫌いだけど俺の誇り! イエァなにこの自己矛盾。きっと太陽のせいだ! もしくは雨雲のせい。夕立って苦手です。雷を伴うからテニスしてると打たれます。雷撃サーブ。おやすぬ。

とか書き散らすだけで終わるのはなんとなく俺の(大嫌いな)誇りが許さないのでなにか。

誰にでもそれまで自分が築き上げてきた歴史みたいなものがある。それに依ることで人間ってやつぁ自意識を保つ。ものの考え方その他いろいろに、自分固有の方法(もしくは固有だと思いこんでいる)を使って生きるわけで。ここでおもしろいことは、誰でも「自分固有と意識している様式」を持っているにもかかわらず(つまり、自分は他人とは違うと意識しているにもかかわらず)、他人の評価にすら「自分固有」の方法を使ってしまうことだ。足で稼いだジャーナリストは部屋の中で書物と戯れる哲学者に言う、「お前の考えは現状に即していない机上の論理、脳が生み出す空想だ」そして哲学者は言い返す、「お前の考えは人間が書物にして積み重ねてきた材料を使っていない。ゆえに人間存在の本質を捉えず、表面的なものだ」と。この二つはどちらも大きな価値のあるものだし、どちらが勝っているかなど比べようがない。一人の人間にもたらされた時間は有限だから、どちらかを追求することを選んだならその人間はどちらかを諦めねばならない。そうしたとき、自分が切り捨てた方法を貶めるのはどうかと思うのだ。いや、思うだけでさ、俺だったらとことんまで貶めるけどさ。だって「俺が切り捨てた考え」なんだから。俺は俺の考え方で生きていかなきゃ俺じゃなくなっちまう。いちいち自分以外の奴に道を譲る気にはならねぇな。
でも偶に、完膚無きまでに自分の未熟さを思い知らされるときがあったりするんだな。そういうとき、俺は「切り捨てた」日々に少しだけ嫉妬するのだ。そして、俺とは違う道でとてもすばらしい何かを見つけた彼を心から尊敬する。
俺と全く同じ方向性に進む人間はいない。すべての人間は同じ方向には進まない。だから俺はすべての人間を尊敬して、その都度自分の切り捨てた可能性を思い浮かべて、それを生かせた他人を嫉妬し、自分を恨み、そのあと諦めて、また前を向こうとあがくのだ。こういう一連の動作すら結局お前の決めつけだ、みんなもっと違う方向で生きているよ、と宣い、俺がいかに低レベルかを嘲笑う人たちがいる。俺は俺なりに必死で何かを探して、砂を掴んではさらさらとこぼすように無駄を繰り返し、脳の空白を思いこみで埋めながら死亡時刻までの片道をひた走りまくっているのに、彼らはその無駄を、俺が進んで犯すその無駄を、やはり無駄だと切り捨てる。そこに尊敬はない。軽蔑と嘲笑、そして優越感だけがある。俺はそっくりそのまま彼らに返す。俺はお前らを尊敬し続けている、だからその一点において俺は「決めつけ過ぎている」という誹り以上に重要な何かを見つけているんじゃないか、と。
嘲笑する人たち。それは実は俺の頭の中にいる。いつも自分を貶めようとする冷めた振りした自分。ゆるぎまくる十代最後の年の自我。それを俺はなだめすかしてどうにかこうにか毎日やっていこうなのでありますことよ。愛してる。