世にも珍しいものを宝物にするといつかそれを失う時をおそれる羽目になる。ならばありきたりなものを宝物にすれば失うことをおそれないで済むのだろーか。たぶん*1違ぇ。宝物にした時点でありきたりなたくさんあるもののうち或る一つが自分にとっては世にも珍しいものになってしまうと思うからだ。代わりがいくらでもある大切な存在なんてなんとなく矛盾している。綾波レイみたいに、大切な存在の複製で代用品にしてる、とかならまだわかる。サッカーが好きな人間のレプリカボールやユニフォームだし、ギターが好きな人間の*2ギブソンレスポール・ヒスコレリイシュー。読書家の持ってる本にしたって作者の原稿のレプリカとしてだったりしないか? もしくは作者に対する敬愛を示すためのツールとしての本、という自己主張のための蔵書、があったりしないか? それは結局自分の宝物として規定されちまったモノの一つだろう。
レプリカを愛するには*3本物に対する愛がなければどうしようもない。宝物をつくるとき、俺は二種類の宝物を想定する。それそのものが俺にとって大事なモノ、そして大事なモノのレプリカ。いつしかレプリカも俺にとって本物以上に大きな意味を持ち、結局は代替不可能になってしまったりする。どう考えてもこの考え方はロジカルじゃない。むしろ感情的だ。けれどそういうものなのだ。少なくとも俺は。
美学とかって結局そういうもんだよね。とか考えてた。仮免試験落ちた。ちくせう。

*1:いや、一連のありきたりな事柄を全部ひっくるめて愛するなら別だけど。ここで問題にするのは所有物という意味の宝物、だからね?

*2:再販のモデル。本物は1960前後の製品のみ。価格が高騰し過ぎだっつの

*3:ここでいう本物=本の場合は大本。触れないイデアとしての憧れの事物ですね。でもそれは現実に存在しちゃうのでイデアという言葉が使いにくくて困った