ねるねるねるねとはあまりにも完璧な日本語のネーミングオブお菓子である。練るという動作と「ねる」というオノマトペらしき響きを持つ言葉が混ざり合い掛詞的に使われる事によってえもいわれぬ摩訶不思議アドベンチュアな駄菓子の肖像がかたちづくられるのである。

 擬態語としてはたらく「ねる」はなんとはなしにぬめぬめぬらぬらしたグロテスクなそのペースト状の菓子の形態をきわめて自然な形で指し示し、気持ち悪さ=こどもたちにとっての好奇心の的、をも生み出すのである。言葉とはかくも美しくすばらしいものである。マジかよ。

 もちろん、このようなすばらしい、奇跡的な言葉の芸術とも言うべき現象は、日本語に限られるものではない。確かに日本語にはオノマトペ――擬態語と擬音語――が豊富である、という一種盲目的な感傷と解釈を加える事により、ねるねるねるねの独自性を唱えることが可能であるかもしれない。すなわち、ねるねるねるねは日本固有の文化であると。この言説は、一見すれば妥当性を持つ、納得しうるものとなるかもしれない。しかしながら、一例を挙げさせていただく。これを以って反論となすことにより、背理法的に日本固有の文化としてのねるねるねるねを破壊させていただく。

 たとえば英語である。「練る」という動詞はkneadである。不完全を承知でカタカナにより音を表記すればネッドである。なんだか粘土のようであり、粘度を表すようでもある。ここから「練られるべきもの」すなわち、kne--という音とねばねばしているもの、とを結びつける意識的働きが英語圏に住む人々の中に起こらないとは断定できまい。そしてkneadがネッドというオノマトペ的性格を持つにいたれば、英語圏において極めて正確に翻訳されその意義をトレースされた「ねるねるねるね」が理解されうるのである。ゆえにアメリカでねるねるねるねがknead knead kneadとして商品化され大人から子どもまで練って美味しいねるねるねーるね♪な状態になり全米が席巻され全米が笑い全米が涙するようなカタストロフィックな事態すら予想されうるのである!

 わたくしはここに言葉のすばらしさと全能性をいたく感じ、また、そのあまりの恐ろしさに畏怖するものであります。





 みんなしんじゃえみんなしんじゃえみんな信者、え?