そういえばだいぶ前にブログで小説かけといわれた。じゃあかく。つづけばいーなぁ。




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 不幸はたった十秒で訪れてあなたの平穏な日々は一瞬で崩れ去る。たとえば角を曲がった先で偶然トラックに突っ込んだなら。たとえば道の真ん中で偶然キャッシュカードをなくしたなら。たとえば未知のウィルスに偶然感染したなら。誰もが「明日も自分は生きている」と思いながら、「明日は誰かが死ぬだろう」と思っている。いつ自分が『死んでしまった誰か』にカウントされるかなんて、「誰にも」判らないのに。この矛盾は、結局、身をもって思い知らなければ、実感のしようがない。思いもよらない不幸が人をとらえたとき、人は、今まで敢えて見ようとしていなかった身近な落とし穴を垣間見る。そして、屈託のない幸福、一変の曇りもない日常を信じられなくなる。無邪気に笑い世界を信じた赤ん坊が、壮大な夢を見る少年となり、夢を現実に着地させようと反抗する青年となり、最後には現実と妥協した成人となっていくように。それはいちばん健康的な人間の成長のしかただ。社会に適応するためには必要不可欠だ。それでも、どうしようもない遣る瀬なさがつきまとい、空しさに駆られるときがある。

 不幸は往々にして自分に降りかからず、他人に降りかかってしまうものだ。そのときあなたは、ああ、自分が不幸にならなくてよかった、と感じるだろうか? そうだそうなのだ、いつもいつでも不幸は自分には降りかからず、他人に降りかかってしまう。それも、自分よりも大切に思えるような人に、救いようがない形で。だから不幸は嫌なものだ。大切な誰かが不幸になり、それを見ていて自分まで不幸になる。人間が持つ人と人の間のつながりを通して不幸は病気のように感染を繰り返していく。ぼくもまたいつのまにか絡め取られていた不幸という糞のようなループは、俺が大切な人間を持ってしまったからなのだろうか。そんなこと、この身をもって思い知りたい、なんて願わなかったのに、あのたった十秒が、平穏な日々を一瞬で崩してしまったのだ。





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 疎開が決まった。





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 2029年九月二十三日。晴れ。鰯雲がきれい。窓際の列の真ん中にある自分の席でぼくは右腕を枕に突っ伏して左手で文庫本のページをめくりながら中村くんが「今から体育館に行ってバスケすっからやりたいやつこの指とーまれ」と言って人数集めにいそしんで越野くんと元くんがそれにまざって「ほかに入りたいやつは二人ずつ組になって1チームに人数がかたよんないように」と話し合いながら教室を出て行ったその横ではいつもと同じような顔ぶれすなわち固定メンバーの女子グループのうち運動が得意な子が集まった三枝さんたちのグループが中村くんに「ついでにドッチボールの場所とりやって」と頼み中村くんは照れて三枝さんたちは教室から駆け出す準備をしていて俺はそれをライオンに似てると思うけれど雄を顎で使うライオンっておかしい、と思い直したりしているその隣では生井さんたちのグループが微妙な緊張関係にあるらしい瀬戸さんのグループのけたたましさにメンバーそろって顔をしかめながらも自分たちもじゅうぶんに姦しいおしゃべりに興じていてそれを見ている井田くんと山木くんの地味なコンビがわかりやすいくらいにクラス全体からほぼ等間隔の隔離を喰らい井田くんたちは自分たちと同じくかなりおとなしい性質の生井さんさえがナカマハズレをあっさりやってのけている事実をそろそろ受け入れはじめ(ハブがはじまったのは三ヶ月前だった)戸山さんの女子グループは授業の途中で消えてしまったいわゆる不良グループの男女について何も知らないふりをしつつまことしやかなうわさ話をはじめたのでクラスの全員の注目が一瞬だけそちらに集まったりするのを見ていた。