体をひっくり返して水洗いしたい気分だ。ついでに自分にくっついている観念の贅肉やら実際の脂肪やらをひっぺがしてまっさらになりたい。それはつまり自殺るということですか、と自分の言動の危険さに気づく(振りをしてる)。





 倫理学のはなし。ジサツテツガクリンリガク。共同体論者と義務論者の議論って平等か自由かどちらに重きをおくか、という議論に還元しようと思えばできないこともないのです。結局、卵か鶏か=社会か個人か、という方向性で議論を進める限り無限ループなのです、だって平等な社会では個人の自由さは制限されざるを得ないし、自由な社会では格差ができるわけで。カネと言葉とシステムで生活を回す限り人間はこの構造から逃れられないだろうと思われます。

 もしカネや言葉やシステムがほかの概念に置き換わっても、きっとまた別の対立する概念どうしによる葛藤が始まるんじゃなかろうか。一見正反対に見える言葉・概念は、実際には無矛盾に成立したり、お互いのどちらの存在も許さなかったり、わかりやすくありがちな対立概念としてお互いを批判しあったりするので、正直「対立しあう二つの概念」というコンセプト自体がもう駄目駄目なんですけれど!

 そう考えると弁証法も結局は破綻を抱えた思考法だなぁ。対立概念の無矛盾な共存、双方の非成立を考慮に入れられないから。

 ただ、弁証法=aufhabenは両方持って高次の段階に行くからそういうことになるわけで。死の弁証法にすればいいんでわ? たとえば、両方投げ捨てる。

 直接例にするなら平等と自由、どちらも捨てて自殺する。これ、完璧。概念を成立せしめる主体そのものの消滅。論理記号でいうと

A→B のとき A=0 B=X ということか。真理値は一応全て1。

 全ての命題の哲学的解決は思考停止=エポケーとか言うつもりはとくにないんですが、平等と自由の間の板ばさみになって自殺を図る、社会と個人の板ばさみになって自殺を図る、他人志向性と自己中心性の板ばさみになって自殺を図る、これどれも近代的自我+近代的社会が構造的に抱えてきた一大社会現象群だったりはしませんか。

 そういえば共同体論と義務論、つまりロールズの正義論が論争を呼び起こしていたのは1950年以降だったか。田辺元が種の論理で個・種・類の絶対弁証法を編み出して、ヘーゲル的「国家」は常に「個」(個人)と「種」(共同体)のどちらか志向に傾き、弁証的関係を再帰的(再帰であってんのかわからんからここは暫定)に繰り返す、といったのが第二次世界大戦前。

 某つくB大学の倫理関係の授業をただぼけーと受けているだけでこんだけ関係のない人たちの関係性が見えてくるってすげーなぁと思った。日本はアメリカよりちょっち早かった。そのかわりこの初期田辺自身が「種」に傾いてファシズム擁護に行っちゃうわけだけれども……それは残念か。

 とにかく、「対立する概念」は本当に対立するのかどうかを考えるきっかけが弁証法だったなら、結局言葉は信用ならねー、だって言葉面対立してても実際には対立してるかどうか微妙ぢゃん、という発見がされたのはすばらしいことで、だからこそ昔のことを批判的に継承するってのは哲学の常套句なわけでありますかな。

 まぁ、そういうことを踏まえて考えてみても、近代的な人の苦悩の解決の一端は、やっぱり自殺にあるのではないか、という意見に行き着きつつあります。今なんかクオリティーオブライフとか尊厳死とか言われてますが、conciousnessを保ったまま死ぬのが尊厳死なのか、自らの生の終了地点をはっきりと自覚して死ぬのが人間らしい死に方なのか。そのへんは死にゆくそれぞれの人たちの思いに任せるほかありませんが、哲学とか倫理学とか、そういった学問は精神の安泰のためにあるといいな、と思います。

 「自由からの逃走」じゃないですが、選ぶことを放棄することがもっとも悩みから遠ざかる手段ならば、近代→現代というのはやっぱり人間を疎外する社会がそれ自体怪物じみた構造を備えてたち現れ始めた時代なのでしょうか。言葉が人間を殺すのです。人間の道具であった言葉が、その不完全性から人間の足元をすくい、人間を自殺に追いやる、とでも言いますか。

 どうにかこんなある意味究極的な救いであるもののなんとなく釈然としない(生き続け、存在し続けるための杖になれない哲学)意見から脱出してーなぁ。と思う。つらつら。