マゾヒズムは痛みを快楽に感じる被虐体質とかのことなんだとおもうのだけれど
 たとえば この世に生まれた赤ん坊が世界の全てを苦痛に感じるとき すべてが不快であるのに(母親の腕の中、が蒸し暑い、だとかそういう感覚はあるはず) すべてに依存しなければ生きられないとき 苦しみを 痛みを 愛に 快楽に 変える必要が出てくるような気がした
 もしこれが一理あるなら 人間は 関係を円滑に動作させて 自分が効率よく生きるために マゾヒスティックになることもありうるのかもしれないな なんておもったりして
 どう考えても 自分の思い通りにならないのが人間関係なのに そんな中に信頼だとか愛だとか 根拠のない(あるのかもしれないけどよくわからない)ものを見いだし 全面的に肯定したりしてしまえるのは 思い通りにならない・という不快を受け入れる→快楽に変える・マゾヒスティックな喜びが背面にあるのかもしれない この考えこそ全く根拠なんてないけれど……
 逆に サディズムはなんだろう 他人に痛みを与えることを快楽に感じる、といったって 苦痛をあたえたかどうかを本来的には関知できないはずの「誰か」が「他人」へ何かコミットしたことに関して 快楽を得ることができるんだろうか
 どちらかといえば支配欲・自分の思い通りになったときに快楽を得る場合 として考えたなら さっきまで書いたマゾヒズムの構造にちょっぴり似通う気もする というか 思い通りになる=それすなわち自分の生存が確定してる・ってことになぞらえたりできるだろうし 思い通りになるという状態自体がすでに快楽だろう
 そう考えると サディストは人間本性かもしれないし マゾヒストは社会性を備えていく過程で装備されていく後天的なものなのかもしれない 過剰適応という心理学用語があるけれど 俺には過剰適応に陥ってしまったひとは社会的にマゾヒストであるように見えた これはもしかすると マゾヒスト=社会・関係性に適応するための機制 として考えることの例になるのかもしれない

 上に述べてある糞文章だと 思い通りになる・ならない という意味を重視し過ぎていて サドマゾの意味に必ずあるはずの 痛み・快楽 っていう公式を無視しているような気もするけれど 実はサドマゾっていうのはこういう 思い通りになる あるいは思い通りにされる 状態をカップル(あるいは複数)の間で作って 関係性の構造をわかりやすくして それを性的快楽になぞらえてみている行為なのかもしれない
 たとえばオリエント専制国家の君主は杖を持っていたけれど あれは男性器の象徴であり権力の象徴でもあったらしいですね 人間の考えることは簡単にかわらないのかも 男性器的なシンボルで権力の象徴をつくったら 逆に性行為・快楽のメカニズムに 社会的営みのメタファーをとりいれたってわけか? まあよくわからんが

 というか人間の性的快楽っていうのは 生物的に見ればちょっと不可解なんだろうし いろいろ議論もされているはず 愛の有無できもちいいとかよくないとか 心理学? 社会学? よーわからんくらい論じる領域はあるわけで 単にサドマゾ=社会機制 で片づけたりしていると絶対に論じていない地平があるんだろうとおもう
 ところで、世界を思い通りに支配するのがサディスティックなら、科学はサディスティックですねwww