体重はそのままだから 内臓脂肪を疑わなくてはいけない 鬱だ
 ニアアンダーセヴンのDVDBOXとシリアルエクスペリメンツレインのDVDBOXを並べて本棚に置いて悦にひたるダウナーなよろこび
 そんなにインドアでレトロなオタク趣味ばっか持っているといつかカルチャーから取り残されるよ俺!
 カヒミカリィ超聴きたい てかぽっぷな音楽に触れて弾き語りをやってみたい そんな気分が大学入ってからずっと続いている なぜだ

 適当に考えていたこと:
 基本的に恋愛はありきたりくさい いくら当事者のかたがたが「これは特別よ!」とか思っていても 実はよくあるパターンに当てはまるケースがおおい これは別にドラマその他の物語で恋愛モデルケース的なものが垂れ流されているだけではないはずなのだけれど 実際人間の行動パターンは割と似通うもんらしい →そりゃそうか、就職してる人間の時間の使い方なんて殆どの仕事とたまのオフ そこに学生時代の交友関係 社会人になってからの交友関係 くらいを加えて個人の時間をちょっと足せば大体網羅できるから 自ずから行動は限定されますね 出会いなんてその範囲内での出来事でしかないわけで
 で たぶんモデルケースっぽく ありきたりに恋愛が構成されるから ドラマみてーな恋愛・ロマンティックな演出とか 現実にやってやれないことはなく 暗黙の了解的なかんじで 贈り物だとかデートだとか 「つきあうって何?」なんて哲学的命題シカトして「おつきあい」ができてしまうわけ
 でもモデルケースにはまりすぎると 恋愛は少なくとも二人でやるもので おたがいの確認が重要なはずなのに それすら暗黙の了解の範囲に放り込んで 相手のことが見えず先走る みたいなことも起きてくるとおもう あるいは世間的に「つきあう」のモデルケースになってることを「やんなきゃいけない」ような気持ちになるとか ex)贈り物とかデートとか連絡とか (それに 俺は個人的に 恋愛は 二人のみならず 周りの人間巻き込むもんだとおもってますが それはいったんおいといて)
 逆にモデルケースにはまらない場合は「つきあうって何?」っていつも考え続けなくちゃならない そんなことまずないとおもうけれど それこそ「君のことをもっと知りたい」みたいな口説き文句のアイロニーだわな(「君のことをもっと知りたい」ていうのは、実は 君のことが理解できない! 君のことを今自分は知らない! ていうカミングアウトにも聞こえるはずなのであーる、っていう考え方)
 すげーめんどくさいのは、モデルケースにはまらない、っていう時点でおたがいのことを考えてどのように「つきあう」ことをやるべきか考えなくちゃいけないのに そういう思考を放棄したりするような場合こそが モデルケース以外のケースであって ここできちんとカップル間対話が成立する場合は 恋愛のモデルケースにある意味では入ってしまうというすげー皮肉です ぶっちゃけ厄介な相手だとおもったら別れるが吉です 的な結論に至りそうですが 理論って恋愛の前では無意味だよね? ていう考えも踏まえることになると もうだめだ冷静と情熱のあいだ 言葉を発するよりも抱きしめる方がはやいときもあるとおもうのです
 どこまでがありきたりで どこからがめずらしいのか 区別つける線引きなんてできるはずもない領域であるところの恋愛ですが 少なくともそういう分け方はできないでもない気がします ていうか基本は 恋愛やってる当事者がどんなひとかによる=普通のひとか、変人か とおもうのだけれどどうしたものか(変人なのに恋には普通の態度だったり、普通人なのに恋には変な態度だったり、と色々なケースも想定されますが 基本は自分と相手の対話できちんと恋愛を成立させ→モデルケースにもっていくひとと ひとりよがりになってしまうひとと に類型できるとおもったり)
 とりあえず まわり見ても 自分かえりみても 書籍みても 恋愛ってめんどくさいなぁとおもう めんどくさいのは めんどくさいとおもいながらもせずにはいられないっていう タチの悪さが 恋愛に備わっているからなんだろうなぁ とか おもう。