大学病。どんな文を見ても、常にその単語の使われ方と意味を見てしまうおいら。世間じゃそんなん通用しねー。じゃあ、なんで通用しねー! と今俺が断じてしまえるくらいに、世間では単語の使われ方・意味が一元化してるのん?

 一応こういう文章は問いを立てたあと大体の答えが用意されてるわけで。往々にしてありがちな形式を、俺もまた踏襲してみるのです。世間で単語の使われ方・意味が一元化していく、その原因は「世間」そのもの。日本の場合はきっと、ね。西欧のアカデミックな用語で言えば「社会」なんかね? 日本には「society」ではなく社会あるいは世間があると思うのだけれど……
 
 ほら、簡単な例を一個挙げてみるべ。「恋愛」とそれに関わってくる諸概念色々諸々。彼彼女がいない人間はさびしいとか(あるいはさびしがるべきとか)、つきあうとかそういうのはどういうことかとか、別に誰もがガッコで教わったわけでもなく、だからといって本能で埋め込まれてたわけでもなく、自分ひとりで思いついたわけでもないだろうに、大体実にスムーズに、恋に落ちたり落とされたり、デートといえば二人で遊びに、額面通りの浮気に対しちゃ額面通りに怒ったり、深みにずぶずぶはまったり、あげくにはめたりはめられたり(藁)するわけでして。この原因は何でしょかね?

 ここで俺のようなウブでシャイなモダンボーイにもどっかのDQNにも等しく「恋愛」及び「恋愛」関連概念を理解させてくれるのはやっぱり世間=社会だと思われ。テレビも現代っ子には大影響かな? ハニカミとか悔しいくらいそういう意味では論文なんかよりも素晴らしい仕事してますよコンチキショー。俺にもああいう機会がほしいかも。まあ話を戻せば、個人にしても世間=社会にしても、起源を求めようとしたら結局は鶏卵の喩えになっちゃうので、どっちが先に成立してるのかな? 的疑問は一端ここでは封殺しときます。一応仮定として、概念の理解におけるある一定の度合いまでのガイドラインは、世間=社会がひとをその世間=社会を構成せしめる一員として受け容れるときに大体ひとに浴びせられてきたと思われます。浴び損なったヤツは一般通念から外れるのでものすごく生殖とかおつきあいとかにおいて不利です。だって同じように一般通念から外れちゃった子としか☆☆できねーし。(☆☆=「恋愛」ではないけれど恋愛のような何かしらの概念、だとおもってください。言語化できなかったんだ、記号でごめんなさいねw

 ここまでなら誰だって考えるあるいは思いつきそうなもんです。だがしかし、あるひとつの笑える事象が起きうるということを俺は発見してしまったのですwwwwwww

 すなわち、「恋愛」及び「恋愛」関連概念についてのガイドラインを取得しないままで、それでも一般通念を知識としては知っている状態ってのがありうるのです。だから☆☆するのではなくフツーに「恋愛」もやれるわけです(シミュレートで)。さきほどから一般通念、あるいはガイドラインという言葉で記述している概念がありますが、これは結局知っているだけの状態とそれを規範化している状態とでは雲泥の差があると思います。言うなれば、当たり前のこととして「恋愛」をやるのと、こうすればいいということを知っているから「恋愛」をやるのとではものすごく意味が違ってくるのです。まあつまり、内面化・身体化なんてされていなくても何だって可能なんです。

 にゃー、これもある意味前にやった「空気嫁」「てる?」「てない」的議論のアレでして、
 ・意味作用と用語をそれたらしめる社会的文脈、イデオロギーに目を向けるべし的方針とか(コノテーションとかの考え方からキター、みたいな
 ・あるいはバルト的な意味での情報送り手によるコード化・受け手による脱コード化の間に横たわるコード体系とか
 ・にゃー、ハイデガーじゃないけど「構造が構造化され」たり「構造化された構造だ」ったりしそうや……どう見てもトートロジーなんだが
 とかそういう種類の諸議論も呼び出しそうですねwww

 まー、話を戻しますと、世間が規範をひとに内面化させてはじめてひとは世間と関わるのです。基本的には。で、内面化してなくても世間に関わるためには規範を知ってるとOKなんです。どっちが優れているか、というのは論に値しないもんだと思いますが(考え方なんて人それぞれじゃん? ていう「考え方」なんです、俺わ)、少なくともこういうコンテクストに目を向けたり・構造=まあつまりドクサについて考えるときはドクサがドクサであることを気づけないといけないわけで、あー、ソクラテスまで遡るわけで。

 ところで、すごく個人的な話に一気に飛ぶのですが、俺はそういう文脈読みがへたくそなので、意味・語用を確かめたりして精読しようとする癖が少なからずありました。そうすると、たまに空気嫁てなかったり、あるいはレスポンスが遅くなったりするのですが……

 こういう自分の経験を踏まえると、社会通念は批判的に吟味されるのもアカデミズムにおいては大ありなのですが、今よくやられてるそれだとドクサをドクサとして理解しただけに過ぎぬのが多いように思えるのです。通念の罪のみじゃなくて功績にも目を向けておかないといけね。俺は、事象の抽象を行って言葉を手に入れた人間は、結果として常に全部をいちいち把握しないで済み、反応が早くなり、生き延びるのが簡単になったのだ、と思っていますので、これにアナロジーちっくに結びつけて「通念は単に意思疎通を行わせるためのみならず、また疎通をさらに円滑にするために意味体系をまとめていくのだ」という命題を提示してみます。

 うん、これだから俺は空気嫁ないキャラなんだ。モテないんだ。ショボーン