感情→論理→感情

3カ月の孫を絞殺容疑、60歳祖母を逮捕 東京・日野

2007年09月04日12時25分

 同居していた生後3カ月の孫を殺したとして、警視庁は4日、祖母の東京都日野市東豊田1丁目、無職佐藤和美容疑者(60)を殺人容疑で逮捕した。調べに「病気の孫の将来が不安で、発作的に殺してしまった」と供述しているという。

 日野署の調べでは、佐藤容疑者は3日午前11時ごろ、自宅1階の和室で、昼寝していた孫の川口直丈ちゃんの首をタオルで絞めて殺害した疑い。同日午後7時ごろ、夫(67)に付き添われて同署に自首した。

 佐藤容疑者方は1階に祖父母、2階に直丈ちゃんの父親の会社員真吾さん(29)と母親(30)、姉(2)が暮らしていた。事件当時、母親は姉と買い物に出かけており、直丈ちゃんと佐藤容疑者の2人だけだったという。

 近所の男性は「子どものおかしな泣き声は聞いたことがなく、孫の面倒をよく見るいいおばあちゃんだったのに」と驚いていた。
引用元:http://www.asahi.com/national/update/0904/TKY200709040155.html?ref=rss

<殺人>祖母が3カ月の孫を絞殺 警察に自首 東京・日野

9月4日11時47分配信 毎日新聞

 生後3カ月の孫を殺害したとして警視庁日野署は4日、東京都日野市東豊田1、無職、佐藤和美容疑者(60)を殺人容疑で逮捕した。孫は脳に障害があったといい、佐藤容疑者は「病気のため将来をふびんに思って殺してしまった」と供述しているという。
 調べでは、佐藤容疑者は3日午前11時ごろ自宅1階の和室で、同居している三女夫婦の長男、直丈ちゃん(3カ月)の首を台所にあったタオルで絞めて殺害した疑い。同日午後6時50分ごろ、夫(67)に付き添われて同署に自首してきた。
 佐藤容疑者方は佐藤容疑者夫婦と三女夫婦、孫2人の6人家族。1階に佐藤容疑者夫婦、2階に三女一家が住んでいる。他の4人は外出中で、自宅には佐藤容疑者と直丈ちゃんだけがいた。
 近所の住民によると、佐藤容疑者は1〜2年前から三女夫婦と同居し始めた。夕方になると三女や2人の孫と散歩し、直丈ちゃんを抱いて「また孫が出来てにぎやかになった」とうれしそうに話していたという。
 近所の主婦は「毎朝、元気な赤ちゃんの泣き声が聞こえていたのに、今日は聞こえなくておかしいと思っていた。幸せそのものの家族だったのに、本当に驚いた」と話した。【神澤龍二、酒井祥宏】
引用元:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070904-00000033-mai-soci

 とりあえず感情論。「やりきれねぇ……」
 俺の個人的な思いはこれに尽きます。じゃとりあえず感情を凍らせてみましょう。

 不謹慎に思われるかもしれませんが、とことんまで自分の言葉でこの事件の倫理的問題について考えてみようと思います。これが倫理学を学んでいるところの自分にできる、この事件の受け止め方であるからです。

 記事には書かれていませんが、この家族がどのような状況におかれていたのかはある程度想像がつくと思います。
 祖母に当たる人はどのような思いで孫を殺してしまったのか?
 障害を持つ子が生まれた家庭はどのように変わってしまうのか?
 色々と考えるべきことはあると思います。

 障害は脳のものだったようです。*1重い障害だったのかもしれません。三ヶ月の時点でわかっている障害ということは、重いものであることが往々にして多いと思われます。

 遺伝子の異常などによる障害であれば、出生前診断において判明するほど現代の医療は発達しています。選択的出産を行うべき、とする人もいるでしょう。障害児は堕胎すればいい、とする意見は確かにあるのです。
 ただ、医療技術は万能ではありません。無論診断も誤ることはあります。健常児であったとしても誤って診断され、堕胎されてしまう場合はどう考えればいいのでしょうか。
 また、障害児・健常児を問わず、こどもたちの声なき声はどこに消えていくのでしょうか。「生きていたかった」「死にたかった」と言うことすら許されないこどもたちの人権というものをどのように考えればよいのでしょうか。この問題はあまりに困難です。

 また、分娩における無酸素状態が長く続けば、脳に後遺症が残ることになります。これは医療がいくら発達しようと、少なくとも現代においても可能性はあるものです。妊娠・出産は「安全なもの」、「五体満足な子どもが生まれて当然なもの」として考えがちな現代は、少し*2危機感を欠いているのではないかと私には思われます。

 さて、この事件の背景や、祖母の心情を想像してみましょう。
 実はこの事件の受け取り方は、その人のものの考え方次第でいかようにも変わるのです。

 たとえば、多少この家族の立場に立ってものごとを見ようとした人の場合ではどうでしょうか。「孫の将来、その孫をずっと支えていかなくてはならない子供夫婦の行く末を案じれば、可愛い孫を手にかけなければならない」と考えたのだろう、と受け取る人もいるでしょう。
 実際、障害児を持った家庭に、家族の意見の不一致による不和が起こったり、両親がノイローゼにかかったり、家計の面でも苦しくなったり、ということは頻繁に起こることです。こどもの面倒を最後までみてやれない、という年齢の問題もあるかもしれません。

 あるいは、「何の役にも立たず負担ばかりかけるだけの存在を間引くのは当たり前」と思っていらっしゃる方ならば、このように考えてやったのだ、と受け取るかもしれません。このような価値観は実際昔の日本においてもありました。奇形児を産婆がその場で殺し死産だったことにする、歴史事項で言えば蛭子を葦の舟で流す……などです。また、障害児が生まれることを「恥」とする考え方もあります。
 生物的に劣ったものは淘汰されるべきだ、という考えは、常に人類が存在する限りあり続けることでしょう。

 「祖母が殺した」という一点において拒絶感を露にする人、あるいは祖母の心情に同情する人もいるでしょう。両親ではなく遠い親等にあたり、つながりのない祖母に孫の人生を消す権利はあるのか、という考えももっともです。また、老い先短い祖母が息子夫婦の幸せのため業を背負った、と解釈する方もいるでしょう。

 さまざまなとらえかたが考えられますが、現実においてはこれらの側面はすべて包含されているのかもしれませんし、逆にほとんどが含まれていないかもしれません。

 乱暴に言えば、この記事から受ける「印象」で私たちがこの事件を「こういうものだ」と断じて「同情」あるいは「嫌悪」を表明するのはあまりにも薄っぺらい、思考を放棄した態度です。それを悪いとは言いませんが、自分はもう少し悩んで苦しみたいと思います。
 感情論や自分の経験談をいちどはなれて考える必要があります。そうでなければ、同じような状況、同じような事件が起こっても、何も進歩せず、ただ再び「同情」と「嫌悪」だけが巻き起こるだけになるでしょう。そして、社会における「倫理」的判断は棚上げされ、個人的な感想だけが渦巻くようになってしまいます。それは倫理思想の死であり、ひいては法的判断・人道的判断のどちらも今後これらから出てこない原因となってしまうかもしれません。
 このような悲劇を同じ形で繰り返さないためには、人がそれによって立つところの倫理思想が必要だと私は思います。簡単なことではなく、むしろそれを定立してしまうのは不可能かつナンセンスなのかもしれませんが、少なくともそれを求めて考え続けることは有意義なのではないか、と私は考えます。

 これに絡めて語られる話題とともにまとめてみますと、ここにある問題は
1・医療技術・生命倫理の問題
2・障害者・安楽死の問題
3・現代の思想の問題

 の三つだといえます。
 1の問題は、直接この事件に関係ないとはいえ、障害児の問題と出生前診断・中絶関連の問題すなわち生命倫理の問題は不可分なものだと言えるでしょう。
 2の問題は、「安楽死」とは言いがたい、殺人だと断ずる方もいるでしょうが、ある意味では安楽死のケースであると考えられます。というのは、「安楽死」には殺される側が「望む」安楽死と「望まない」安楽死とがあり、そのどちらのケースにあてはまるかはこの事件の場合わからないからです。「殺人」と「安楽死」の境界も簡単に分かつことができるものではありません。
 ともあれ1は近代から現代における技術と倫理の問題のうちのひとつですし、2は森鴎外の「高瀬舟」において描かれたように、人間社会と安楽死は永遠のテーマでもあります。

 結局これだけ整理し、考えてみて、わかることといえば、これらの問題は明確な答えがなかなか出てこない、むしろ出して

しまってはいけないような問題である、ということだけなのかもしれません。
 だからこそ私はこの問題についての意見として、「わからない」「むずかしい」というもの以上に、個人的にこれだけは表明したいです。

152 :名無しさん@八周年:2007/09/04(火) 12:59:13 id:Ie1jFMC30
障害のある子供は正直いらない。同意してくれる冷めた嫁をもらいたい。
赤ちゃんポスト行きだ

引用元:http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1188876998/

 匿名の掲示板、2ちゃんねるでは、この事件についてもさまざまな意見の交換がなされていました。
 その中でも目を引いたこの短い書き込みは、完全に「子捨て」を表明しています。これが何人もの同意を得ていました。

 「赤ちゃんポスト」に関しての論はまたの機会に書くことにします。

 *3匿名であるゆえに述べることができる本音として、以上の発言が述べられ、また多く同意される状況は、自分にとっては*4許容しがたいことでした。
 答えを出すまで悩んでほしい、他人事としてとらえないでほしい。もちろんこの書き込みをした人はきっと「嫁」はいなくて、当然のごとく「子殺し」「孫殺し」なんて事象は他人事としてとらえるしかないのだろうけれども。
 「自分」にとって得になるか損になるか、あるいは「社会」にとって得になるか損になるか、この計算のみで命が考えられる社会を無条件に是とすることだけはしてはいけないのではないか、と私は思います。

 *5「自己」を中心にして世界が考えられる、さらに資本主義が爛熟の盛りにあるこの時代・この社会・この日本において、優生学的な思考が生まれるのは当然のことでもあると思いますが……
 「倫理」や「人権」というある種の現実からかけ離れた理想を標榜せねばならない立場にある自分としては、思考停止して弱肉強食的・優生学的な理論を肯定することはしません。
 できれば、この問題を通して悩み考え、もし自分がその立場になったとしたら、もし知り合いがその立場になったとしたら、あるいは他人事なのだとしても決めつけ・断定を避けてできる限り考えていくことができたらいいと思います。
 私にとっての倫理は、思想は、そういうものだったりします。

 考え・悩んでいく過程こそが倫理だと思います。その過程において、感情は極力排すべきことは先述しましたが、私の「悩むべきだ」とする原初の動機はむしろ感情論的・直観的なものでした。

 (ここから感情論に戻ります。論理でガチガチの文章としてやりきることができなかったことをお詫びします)

 たとえば、もしかすると、私自身が「子捨て」を肯定する立場の結論に至ってしまうかもしれません。それでも、そこにいたるまで考え続けてきた過程こそが、生きることにおいて必要なのではないかと思います。悩まず決定した答えは、効率は良いのかもしれませんが、きっと悲しいものであるように思うからです。
 結局倫理というものは、「〜〜してはいけないのではないか」という直観・感情を大事にして、その上で論理を重ねるものなのではないか、という実感が一方では自分にあるため、最後まで論理的にまとめていくことができませんでした。
 ものを考えることは本当に難しいと思います。ひとは論理だけで生きられないからです。
 議論することも難しいと思います。ひとはそれぞれ違ったものの見方を持つからです。
 けれど、だからといってその「難しいこと」をなすことが生きることだと思うのです。

 長文失礼いたしました。

*1:ダウン症ターナー症候群、水頭症、心疾患、内臓不全など重い障害のうち出生前にわかるものは多いです。

*2:もし死産・産婦の死亡などが起これば、それは「仕方ないものだった」とされず、「産科医の責任」とされてしまいがちな現代の産婦人科の惨状は、この前提の上に立つものなのではないでしょうか?

*3:2ちゃんねるは匿名で書き込むことができる、インターネット上の巨大掲示板群です。

*4:「許せない」と書くと感情的に見え、「許容しがたい」と書くと論理的に見える漢語のマジックですね。ここでは自分は思想的立場として受け入れられない、という意味でこの言葉を使いました。

*5:デカルトにおけるエゴ。「親のエゴで子を云々」という言説も多くありますが、「エゴ」とはすなわち自己にほかなりません。他者を自己の支配に置くことができる例の一つとして、親が子を隷属させるような状況が現代においてもあるということです。