I.Kant純粋理性批判(第一版/A版)1781をまとめてみるっていうすさまじく無謀な試み。
 平凡社ライブラリーの「純粋理性批判」原佑訳を参照しました。1966年刊の理想社「カント全集」を補訂したものだそうです。


 序文

 人間的理性はその認識の或る種類において特異な運命をもっている。それは、人間的理性が、拒絶することはできないが、しかし解答することもできないいくつかの問いによって悩まされているという運命であって、拒絶することができないというのは、それらの問いが理性自身の本性によって人間的理性に課せられているからであり、解答することができないというのは、それらの問いが人間的理性のあらゆる能力を越え出ているからである。

純粋理性批判」Ⅶ

 近代の認識論は、デカルトによるものであれロックによるものであれ、人間を主体とする自主的な認識活動を前提とするものである。ここにおいて大陸合理論は、「理性は何が可能であるか」を列挙していくようになり、たとえば「神の存在」「霊魂の不滅」「自由」などの形而上学的命題についても、理性使用により独断的に肯定ないしは否定することが可能である、と主張するに至っていた。
 カントもはじめはどちらかといえばこの立場に属していたが、ヒュームの「物体的実体」「形而上学的実体」それぞれの存在を経験論的な立場から否定する哲学に接し、*1「独断の眠りをさまされた」というのは有名な話である。

 さて、序文において、カントは、人間的理性に限界が存在することを明示する。理性の使用には、経験または経験によって確証されている諸原則を用いることが避けられ得ないこととして想定される。ここにおいては、通常の、理性使用すなわち認識が可能であるのは確からしいことである。しかしながら、形而上学的命題について理性を使用するとき、人間理性は経験または経験によって確証されている諸原則を越え出ていく。このことによって人間理性は「曖昧と矛盾のうちへと」陥ってしまう。ここにおいて理性そのものに「曖昧と矛盾」のうちへと陥ることに対する責任はない、とカントは論じる。それはつまり、理性の使用において経験こそが重要かつ不可欠な試金石を成しているため、それなしで・理性のみで独断論的に形而上学的命題を肯定・否定できるとは考えていないからである。
 以上のことを定立するため、理性の自己認識・自己吟味が提唱される。「理性の要求が正しい場合には理性を護り、これに反してすべての根拠のない越権を、強権の命令によってではなく、理性の永遠不変の諸法則にしたがって拒む」ことができるような純粋理性の批判の学を想定するのである。



まだ書きとちゅうー

*1:カント自身すでに合理論的な理性能力に関する命題に対して違和感を抱き、ヒューム哲学を知ることでその違和感に確信を得て、理性批判の哲学を着手するに至る、という流れを想定する方がどうやら正しいようである。しかしながら、カントの「転回」についての研究論文は近年ちらほらと見られるとはいえあまり多くはないらしい。今度調べてこよっと。