風邪引いて熱だして寝込む休日。ゆ、有意義だもんね! 布団さいこう!(という強がり(ってばかりじゃいられない(わかっているけど素直になれない(そんな強気って萌えるよね(男だとかわいくないけど

 イマドキの就活に不可欠なことは、「自分に合った会社を選ぶ」ためにまず「自分ってどんな人間か?」という問いを立てて・自己分析を進めていくこと、らしいです。
 別に就活をするつもりなんぞさらさらねぇ俺なので、「自己分析」なんていう大層な意味合いを持っていそうな四字熟語を見たところでふーんあっそ……くらいのうっすいリアクション以外取りようがないですが、どうやらまじめに就活なさる人々にとってはこれは一大事のようです。
 世の中には経営学なんてものがありまして、たとえば目的(Plan)を立てて行動(do)し、その結果を検討(See)して改善する、という一連の流れを企業にも人にも適用して「効率をよくする」方法論として提示しています。
 上の例が学問として成り立っちゃうくらいに、時はまさに世紀末、この世はまさに弱肉強食の資本主義なので、効率良く仕事を解決していき・多くの利益をもたらすような人間こそきっと求められていることでしょう。つまり効率良い人間は企業がほしがる。企業がほしがる人間になることが就活の第一歩。よしまずは自己分析だ、となるわけです。たぶん。詳しくは知らねぇんだってヴァよ。
 まぁそんな中で自己分析ですよ、あなた。もし現役で大学に入学して四年で卒業すると考えると、22にもなってやっとこさ自分について考え出すわけですよ。つか大学でのんびり遊ぶ暇があったらとっとと就活の準備やって自己分析はじめたらいかがか? 曲がりなりにも高等教育を受けた人間なんだから……と思いますが、それはそれとして。
 自己分析の方法として、「自分で自分のことを考える」というのはもちろんあるのですが、俺が興味深いなぁ、と思って話を聞いたのはコレです。「他己分析」。読んで字のごとく、だれか友達やらなにやらに自分はどうゆう人間であるか? というのを聴いてみるというもの。「コレが自分なんだ……と思った」みたいな感じの感想が大学のそこかしこで聞こえてきます。そりゃ一人で思い悩むよりも誰かが居た方が気が楽だわな……。でもそれだけじゃなさそうですよね。一般論として聴くこともあるはずです、「自分ではわからないことが他人に見えてるときがある」。虫歯の詳しいところを見つけられるのは自分じゃなく歯医者=他人、運動の時のフォームを詳しく分析してくれるのはトレーナー=他人、テストの点数を計算してくれたり成績をつけてくれるのは先生=他人。実は、我々の自己というものは、自分自身によるよりもむしろ他人によってこそ分析され・判断されている機会が多いという確固たる事実がここにあります。
 そういえば自分の目で自分の体ってあんまり見えませんよね。背中なんて一生見る機会がなかったりしそうですし(バレリーナやらヨーガの人は別として?)、鏡なんて発想がなければ人は他のどんな人の顔も見ることができるのに自分の顔だけは一生知らないまま過ごす羽目になったのかもしれません。想像してみるとおもしろいものです。「自分のことは自分が一番よく知っている」なんていえませんね。
 ちなみに近代認識論の基礎を築いたデカルトの象徴的な言葉「我思う、ゆえに我在り」ですが、"cogito ergo sum"英語に直すと"I think therefore I am"、これ実は「考える私」すなわち何かを「認識する私」が、「私の存在」の条件として考えられている・というふうに読むことができます。ここにおいて、『「存在する私」を成り立たせているのは「認識する私」だ』、というふうに並べ変えるとわかりやすいのですが、「私」はどうやっても単体では私の存在そのものを認識することができないのではないか? と読むこともできるのではないでしょうか?
 そもそもデカルトは全ての存在を疑ってかかることから(方法的懐疑)はじめているため、もちろん「私」の存在も一旦括弧の中に入れられています。その後、「疑っている私」はある、というふうに認めざるを得ない、としてそこから主格二元論に発展していく認識論を展開していくのですが、この文脈では「私」は「私の思考・認識」に先立って「存在する」「私」を想定しえないのではないでしょうか。
 むずかしい話になるので簡単に言うと、デカルトによれば「俺」は「俺そのもの」を一生確かに見ることはできない、ということです。
 そう考えるとおもしろいもので、自己を分析するにはまず他者に頼る、という一見すれば矛盾している事柄も腑に落ちるようです。なにせ一度自分を客体化して・見つめる対象にしなければならないのですから……

 ところで今俺が書いていたりする日記あるいはblogについて考えてみたりしましょうか。へっへ。
 自己分析を自分で行うには、「自分」を客体化する必要があると書きました。その手段として有効なのがテキストとして自分を書き・それを見る=認識する、ということではないか、と思います。
 日記やblogの意義のひとつとして、書かれ・記録された「自分」を認識し直すことができます。ここにおいて、「自己分析」は可能になるのではないでしょうか?
 歯医者では写真をとってもらって自分の歯を診ます。トレーナーは動画を撮ってくれて、自分のフォームの癖を教えてくれるかもしれません。テストの点数は先生によって記録され、そのデータはきっと私に届けられます(酷い憂鬱、あるいは少しの優越感を伴って)。同じように、外部に記録された「私」の一部は、全て真実であり「私」の全てを表す・といったような全能のものではないにせよ、自己について思いを巡らしていくには大いに参考資料となるでしょう。実際、受験なんかでは繰り返される点数化によって自分の学力・偏差値を知ったりしたわけですし、それはつまり「自己を絶え間なく客体化したからだよ」ということなのです。
 嘘くせぇ? いやたぶんマジですよ。

 じぶんをじぶんでは直接知ることができない、だから外部の媒体に記録しておく。言葉にはこういった機能もあるわけです。自己との対話のようなものだから、これもコミュニケーションの一環と呼ぶことは……できるんでしょかねw

 といったことを考慮に入れると、たとえば部屋の具合、蔵書、おいてある家具その他なども自己分析に使えたりしそうです。これだって外部化された自己の一部なわけですし。
 きっとネタは一時自分に関わったものすべてになるのだろうと思います。そんな雑多な事柄の中から統一性のある自分を見いだして、「効率イイヨー」とプロモートしていかなくてはならない。……就活用のニセ人格でも作らなきゃ就活なんてやってらんねーんじゃねぇかなどと思ってしまいます。就活する人、大変ですね。がんばってください。せいぜい日記書いたり他人と会話したりしつつ、自分探しに精を出してください。ついでに哲学書哲学書って著者の考え方と考えるパターンが満載だから、誰かとくっちゃべるのとたぶん同じような効果があるんだぜ?)を傍らに置いたりしてくれると、実践的に哲学できて楽しかったり・思想の粋にふれることができたり・教養がついて学を衒うことができたり・なんとなく頭よくなったような気分になったりといろいろ人生にメリットが!!
「ぼくは純粋理性批判で今の妻と出会いました」なんて感じの煽り文句が岩波文庫に付くようになれば日本はおもしろい国になるんじゃねーかな、なんて思ったり。それは冗句です。
 ねぇねぇ、書を持って街に出ようぜ、書とともに我と語ろうぜ、他人と語って生を謳歌しようぜ。シューカツやら何やら、シホンシュギやらなにやら、ジンセイやらなにやら、いろいろと煩わしいことも多く、ただの暇人のモノでしょwww虚学めwww頭よくてよかったでしゅねーwwwみたいに哲学(と哲学なんてものを勉強してる奴ら)を扱ってしまう人もいると思いますが、まぁ結局シューカツ成功するかどうかはみんな哲学できるかどうかにかかってると思うんすよ。哲学史の勉強とかじゃなくて、人生について本気出して考えるわけだから、そりゃやっぱ哲学っすよ。おもしろいよ。たぶん。

 ところで就活もしないし話をする相手もいなくて、教育採用試験(地元)に受からなかったら完全に人生がはじまらないことになってしまう俺の現状ってどうなのよ。アレか、こんな文書く暇があったら一般教養つけるべきか。あるいはむしろ卒論の心配をすべきか。塾バイトしてる時に知り合った人たち曰く「三年夏で卒論決まってないとかwwwバカwww就活もしない? 教師になる? 甘過ぎwww」みたいな反応でしたよね……みんな優秀すぎね? ドクターとか飛び級とか……
 せっかくだから俺は一般人らしく生きるぜ! だから話相手がどっかそのあたりに落ちてないかな……ついでにKANOJOとかいう都市伝説の産物にお目にかかりたい。切実に。