最近はmixiの方が反応来るからこっち書くモチベーションなんか全くありません。だって寂しいじゃん。
 ていうか専門の勉強する暇があったら教職に就くための勉強したい(ぇ
 大学とかどうでもいいー。単位はすげぇほしいけれど。

 学問の価値って「学問を勉強してる人格」に対して何かしらの価値を付加するためにあるように見えるんだぜ。だから学問の価値を標榜する人って、現に学問やってる人以外いなかったりしそう。虚学=哲学はとくに。実学だったら学問というよりもその研究結果に価値を見いだす人々が学の外部にいる確率が虚学より高かったりしそうだし、ほら、そうなればきっと予算も出れば就職だっていいのさ!! あれは学問自身の成果じゃなくて資本主義社会において研究結果が商業的に利用されて役に立っちゃったからなのさ!!

 専攻の話にとんでみる。哲学の中において実践的・実用的な用途に応用できそうな事柄なんて大学にいなくても身につけられそうじゃね? ほら、文庫の「国家」読めば現在にも当てはまりそうなくらい精緻な政治哲学にフムフムなんて言えるし、会話の中でなにか確からしい事柄を見つけていく方法にしたってプラトン対話編のあらゆる部分から簡単に見つけられるじゃんよ。大学がやる文献学的な研究はどのあたりが実践に関わり「やすい」のかがわからんのです。元来実践的・実用的な営みであったところの「哲学」を研究対象にしてるんだから、もちろん実践から完全に遊離したりはしないさ……でもその一点において哲学の研究者が哲学者ぶって「我々は実践的なことを研究している」なんてほざくのはなんだかおかしい……っつうか順序が逆じゃないかと思えてくるわけです。アナタ、それ文献学だから。あらたな読み方を提示できるかもしれないけど、歴史の記録が変わるかもしれないけど、哲学の基本的態度とは既に外れてしまっているところの虚学的研究だから。
 まぁ「自分が楽しいからイイじゃないか」なんていうならそりゃ自己決定権の時代なんだから誰も学問やる人間に対して「役立たないからヤメロ」なんて強制したりはしませんけどー。そーゆー奴が「自分にとって有意義(楽しい)からお前にだって世界にだって有意義(良い)はずだ!!」なんていうことを考えるのはただの誤謬ですよね……哲考(哲学的に考えて)。「楽しい」から「よい」を引き出すのは、「である」から「べきである」を引き出す事例を引き合いに出す必要もないくらいに間違ってるわけですよ。
 じゃあなんで哲学の研究者はなんだか「哲学研究に価値がある」的なことを言うのか? と思うわけですが……
 哲学研究において「ある時代における・ある哲学者の考え」を研究するとき、研究者はその時代の世界観を把握し、またその哲学者の概念装置を把握していきます。これは哲学史をやるにせよ哲学者をやるにせよ不可欠なことで、「当時の世界観」がわかっていなければ、その哲学者の思考がどのように受け入れられたか・どのような意味を持っているのかわからないからです。もちろん「現代の世界観」に自分が染まっていることを自覚しつつやらなきゃならないことなので、「自分を見つめ直す」契機になるっちゃなるんですけどね。とにかく、この作業が哲学について回るわけですが、この逆コースもあると考えたらどうですか? すなわち、哲学研究者は自分の研究テーマの世界観で物事を見る癖がついてしまい、現代において前時代的になってしまっているはずの思想に、当時あったような価値・意味を想定してしまう、と。そりゃ普通ありえねぇよ、研究者が生きてるのはあくまで現代なんだから、とお思いになる方も多いと思います。しかし、哲学者が歴史に名を残すほどにすばらしい思想を展開できていた、というのは並大抵のことではありません。ひとたびその思想をしっかりと理解することができたなら、一般的な人間であるところの我々はそれに心酔せざるをえず、また高い価値を認めざるを得なくなってしまうほどのものなのです。
 現代においても有用であろう古典思想は多々ありますが、それはあくまで古典です。それは文化遺産です。そこから学ぶことはできるけれども、その思想が生まれた時にあった画期的な・歴史に残るような意味合いは薄れてしまっています。思想が「歴史に残る」のは、ある思想がその時代においてきわめて重要な意味を持った、ということです。プラトンアリストテレスカトリック教会の神学を構成していくうえで特に重要だったから残ってきました。「大家」とされ称されている哲学者は、何らかの形でリアルタイムに時代に実践的に関わってきました。トマスは中世の世界観を代表し、デカルトは自我を声高に叫び、ベーコンは実験的態度を言葉にし、ルソーは市民社会という共同体を想定し、カントは主観的な世界認識に体系を与えました。どれもこれもが歴史の流れの中で現れてきた思想を体現し、それにより名が残っているように見えませんか? そして現在という視座で考えれば、思想史というのは、人がいろいろものごとを考えてみるときに現れてくる立場、すなわち「実在論唯名論」的な立場が繰り返し現れてきているだけのものであり、それを解釈している現代からすれば、とくに衝撃的・エポックメイキングなものが再発見できるわけではない、というように言ってしまうことも不可能ではないように思われます(とても乱暴ですが)。哲学研究者なら、たとえばデカルトが同時代人にもたらしたような衝撃を、同時代人の世界観を学ぶことにより、追体験できているのかもしれません。その衝撃があまりに大きいゆえに、きっと研究者は研究者であり続けているのではないでしょうか。そして、哲学に意味を認めざるを得ないような立場に立たされるのではないでしょうか。ですが、その衝撃とは、現代において生きている人間にはとうてい理解できないものであり、またその思想の意味合いも、せいぜい知的な趣味として愛好するなら悪くはないけれど、実用的に価値があるか? という話になると否定的な態度を取らざるをえなくなるのではないでしょうか。

 こうしたことを考慮に入れると、哲学研究者には「普通の人間には見えないものが見えている」ようなことが起きていると思われます。
 だから「普通に見えるもの」もまた違ったふうに見えてくるのです。普通の、現代の世界観では価値なんて考えられないものに価値を置いてしまうのです。哲学を研究していると、「彼の中ではまったく間違っていない・彼の同僚においてもそれは認められる」ことなのに、偏狭な世界観を持つ現代の人間にはそれがわからない、という事態が起きるのでしょう。
 哲学に旨い具合に価値を付加するなら「いまここ」の世界をこそ鋭く見据えた上で思想を展開し、うまく表した言葉が商業ルートに乗って売れたり、その思想に影響された人が現実を変えに走って実際に現実が変わったり、ということが起きなきゃいけないわけですか。つーと価値ある哲学だらけだったら世の中が革命だらけになって大変ですな。やっぱ虚学は虚学らしくしてて、時たまタイミングが良かった秀才が歴史を変える原動力になるくらいがちょうどいいんでしょうね。



 こういうことを考えるのも久しぶりすぎて全然頭が回らないし言葉も思いつかないし指も動かないし。やってらんねー。
 大学に行きすぎて&それなりに休みすぎてなんか心がおかしい。教職とるためと思って自分をごまかしているけど正気じゃいられねーレベルだわ……