http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1012150001.html
まぁまずは本文読まなくちゃね
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/15/news074.html

 改正案の問題点として、(1)あいまいな規定でいくらでも恣意的に解釈でき、幅広い作品が対象になり得ること、(2)漫画などの表現に対する萎縮効果が高く、日本のコンテンツ産業に大きなマイナス影響を与える可能性があること、(3)審議期間が極端に短く、拙速に成立に向かっていること――などが指摘された。

 「文化や芸術はその時代の倫理や教育とかい離がある場合があるが、それを描くことも役割だ」――呉さんは文化論を展開。「例えば井原西鶴の『好色一代男』は、6歳の少年時代からの性の遍歴を描いている。1つの人間の姿を描いているのだから、単純に倫理の問題として裁断し、政治が介入するのは危険」(呉さん)

 改正案が「子どもを健全に育てたい」という善意の発想から成り立っていることへの危険性の指摘もあった。「規制側は、目の前の正義感や倫理観で話すのだろうが、表面的な正義が見えないところで闇を大きくする。キャラクターまで対象にするのは、子どもの環境をあまりに狭く考えすぎている」と里中さんは懸念する。


 0/はじめに

 あのさ。いや、落ち着こう。
 ぼくは今回の都条例案については反対の立場です。なので政治的にはこれを喋っている方々と同じ立場に立ちます。
 ただ、都条例案賛成の立場の気持ちもわかります。

 性の低年齢化、情報のアクセスのし易さはもうどうしようもないところまで来つつあって(現状)、
 子どもを健全に育てるにはどうしたらいいか? ととまどう親や教員や地域があって、
 それに対してクリエイター側は「政治が介入するのは危険」という。
 じゃあ一体だれが親や教員や地域や子どもを守ってくれるのですか? という疑問はたちますね。つーかたたざるを得ない。

 1/筆者立場

 ぼく自身はY太先生とか愛読しますし産卵よりは異種姦よね♪とか宣ったり眼鏡にかけたい! とか思ってたりするような糞野郎なのです。そういう立場なのです。規制なんてされたら「困る」、そういう人間です。どう考えても規制には反対、です。

 ただ、この立場だけで日本が動いてるわけでもねぇんです。規制反対派はなぜ賛成派が「拙速に成立に向かわせ」たかったのか、くらいまでしっかり理解したうえでこの問題を捉えてください。マジで。

 2/反対派の問題点

 ぼくは一部の規制反対派に対して徹底的に反対します。
 彼らは「表現の自由」を「僕らの欲望がみたされないこと」と単純な読み替えを行っています。彼らにとっての「自由」とは、「放恣」です。やりたいようにしたい、と子どもじみた欲求をぶちまけているだけです。
 そのように市場を作り、金を落とし、自分の欲望をみたしていることにたいして、社会的に責任を持つ必要はないのでしょうか。……まぁポルノ見ることに対して責任とかぎゃーぎゃー言うのはナンセンスですね。ぼくもそう思います。でもポルノを広めてアクセス可能な状態にしていっていること、その結果として社会の一部が拒否反応を起こしていること、それくらいは自覚してますよね? それとも「自分はわるくないもーん」って開き直って生きていくんでしょうか。ハタ迷惑ですねーwポルノをがっちり甘受している人間だからこそ、その業界にとても詳しいのでしょうから、どういったシステムを作ればポルノを避けることができるか、という議論にも加わってください。という言い方もできるとおもうんですが、いかがでしょうか。

 3/賛成派の問題点

 ぼくは一部の規制賛成派に対して徹底的に反対します。
 彼らは「自分の嫌いなものはあってほしくない」と考えています。規範意識」という権威にのっとって、単に自分の気に入らないものを制限したいだけです。
 めんどくさいヤツですね。虎の威を借る狐とはこのことです。彼らにとっては「健全」さは一つしかないんでしょうか? つーかこういうふうに自分の嫌いなモノを全部消したがる方ってどんなセックスしてるんでしょうか、ねー。この方々は「自由」についてもう少しお勉強なさったほうがいいでしょう、とも思いますが、ぼくは若干この方々をかわいそうだとおもっています。

 いずれにせよ、どちらの立場も「好きなモノは好きだから仕方ない」「嫌いなモノは嫌いだから仕方ない」という価値判断だけに立脚して、他の価値の多様性を認めることができていません。
 すなわち、民主主義の原則である「自由」と「自由な個」についてまったくわかっていません。

 4/今回の議論の構造的な問題点とか。

 現状、ある程度見識がある方々は、規制反対派だとしても「ある程度業界内で自主規制あるいはゾーニングによる規制を行わなくてはならない」と述べています。宮台は完全にゾーニングをすすめるべきだという前提で*1話をしているようです。

 ただ、コンテンツビジネスであるところの漫画において、「売れる・売れない」が第一義となり、そうした自主規制やゾーニングはうやむやのうちに立ち消えていく、という実情は否定しきることができないでしょう。また、平易に情報にアクセスできる環境がケータイ・PCにより整っていますから、結果として低年齢層が望ましくない表現に触れ、親や教員はどう指導すればいいのか、途方に暮れるわけです。一定数以上「規制してほしい」と望む方々がいる現状を、規制反対派は、重く受け止められるべきです。これを対症療法的に「今回は成立しなかった」「やったー!!」の繰り返しで済ましていれば、いい加減親も教員もキれると思いますよ。

 ぼくの意見としては、別に教員はどうでもいいんです。彼らに期待はするだけムダです。法律も社会的価値観も、今は彼らに権威を与えていません。権威に守られない教育や教育者は脆弱です。だから教育に期待をしても、現在の制度ではムダです。
 親がかわいそうです。親を、だれもまもってはくれません。社会的通念、常識、一般論が親の指導の下支えになっていた時代がありました。その頃は、創作も社会的通念、常識、一般論に抗する形で花開き、そして親は子どもを叱責することができました。
 今は、社会的通念、常識、一般論の底が抜けています。
 コンビニでたむろしてエロ雑誌を読みふける小中生を誰が咎めますか? むしろ、咎めてもいいのですか? そんなもの「勝手だ」ということになっているのではないですか?

 5/ルール、マナー、モラル。

 ルール、マナー、モラルが成立しないから法律で縛る、というのは、短絡的で望ましくないとぼくは思うのですが、その一方である種しかたないことなのではないか、とも思うのです。
 児ポのときもそうでしたけど、もうすこしだけ、賛成派も反対派も互いの*2立場に目を向けるといいと思います。

 「自由とは何であったか」「公共の福祉とは何であったか」というふるくてあたらしい問題や、
 「現状こうした議論が起きている原因は何か」という現状認識の問題や、
 「法律、ルール、マナー、モラル(道徳)、倫理をどうつなげていくか」という問題を考えるきっかけになると思うので、ぜひ考えてみてほしいところです。

 ぼくとしては、ルール、マナー、モラル、倫理としての社会的通念・常識・一般論の再構成か、そうでなければ自由概念についての正確な知識の教授を解決策として求めたいところです。*3これしたからって解決するわけじゃないんですけど、議論を議論として成り立たせるための条件にはなるんじゃないかと。

 いいかげん。対症療法は。やめにしないと、時間の無駄です。

*1:http://www.miyadai.com/index.php?itemid=853

*2:個人的には識者はだいたい両方の立場をみている、と感じています。問題なのは、識者の視野の広い部分をきちんと見ず、自分と共振する部分だけきりとって声をあげる俗流賛成派および俗流反対派の言説です。ぼくは彼らをこそ批判したいです。

*3:この一文を15:42に追記しましたです