わたしの異常な愛情または私は如何にして心配することを止めて論客を愛するようになったか

東浩紀氏、三島由紀夫賞贈呈式について語る」
http://togetter.com/li/32371

(以下、文中の敬称は略します)

 東、大いに暴れる。
 まずはぼく個人の立場として。拍手喝采! ようこそ東! サイコー!!
 東みたいに専門職で食ってるわけではなく、ぶっちゃけ社会の下層にいるぼくですから、こうした「開かれた文壇」を求める姿勢に対しては賛辞を示すしかないのです。つーか「閉じてたほうがいい!」なんてオハイソな人たちしか賛成しないじゃん。オハイソな人たちはマジで賛成すると思うけど。新潮にいらっしゃる編集者とか、所得低くて二次元に萌えるようなオタクに対して人種差別以上の敵愾心持ってても、全然違和感ないっす。だって上流階級ってそういうもんじゃねーの?

 あとぼく、東、好きだし、読むし。

 ただし。

引用:「この発言でぼくは二度と新潮と仕事ができなくなるかもしれませんし、「存在論的」やQFも絶版になるかもしれません。そのリスクも考えました。けれども、ぼくは、ぼくの友人が贈ってくれた花束をそのように扱うことに対して公に抗議をしなければ、ぼくの正義はなくなると考えました。」

 ぼく自身はまったくもってインテリではないにせよ、自分の立場を示すことで、なぜぼくは東が好きなのか、東のどういう「嘘」が好きなのかを明示しておきたいなぁ、と思う。


 東浩紀の芸風として、こうやって「閉ざされた文壇はクソだ」と言い続けていかなくてはならないのだろうな、というのはよーくわかる。

 でも、作品はいったん置いておいて、考えてみたい。東自体の「生活」は「格調高い文壇」の中に取り込まれているし、その中で評価されることに対しては積極的だ(賞を辞退しないことがその象徴)。彼は賞を辞退することはないし、新潮と仕事ができなくなるようなことも実際にはありえない。

 東発言問題の在処は、『東が文壇での仕事を失うとかどうとか、東の文題における細かい事情はwebやtwitterに「開かれる」ことはあり得ず、結局のところ「閉ざされた文壇」内における内輪の事情であり、東自身の言動が、東が批判するところの「閉ざされた文壇」を再生産する形式によって行われている、こと。また、webやtwitterで東の言葉を真に受けてしまう(ことが東によって既に予想されている節がある)ぼくたちにとっては、「文壇の事情」は、どこまでいっても「アクセス不可能な事情」でしかない』というところにあると思う。

 『東「仕事がなくなるかもしれない!」』というのはただのパフォーマンスであり、
 『東「仕事がなくなりはしない!」』という計算ありきの発言でありうるため、その面倒な事情を見抜けない人には東の誠実さ(嘘)が伝わり、面倒な事情がわかる人には東の演技の巧さとあざとさが伝わる、そんな発言として機能している状態なんじゃないかな、と思う。

 もちろん、webとtwitterという東さんが選択的にこれらの発言を垂れ流した場に多く存在しているのは、前者の方々だと思われる。実際にデータ出したわけじゃないけどw!
 さすが東、二枚舌の使い分け方とバランスの取り方が非常に巧いなぁ。と思う。

試合を見ている間にあずまん @hazuma 連投が爆裂していた。花と祝電は新潮社側の明らかなミス。招待者に過剰な警戒心を持たれたのは(その後の風花前での事件に鑑みても)まあムリもないんじゃないの。べつに「文壇関係者以外」がどうこうという問題じゃない気が。
(@nzmの発言)

.@nzm そういう問題じゃないんで、事情をわかってから言っていただきたいかなと。
(@hazumaの発言)

大森望さんのバランス感覚には敬意を表しますが、今回はそういう「ネタ」で落とすつもりはあまりないのです。
(@hazumaの発言)

 東は大森のバランス感覚に敬意を表しつつ、かつ「だが自分はバランスを失いつつも感情的になりつつも、これだけは言わなくてはならないのだ」といったスタンスでいる(つもり)らしい。けど、真にバランス感覚があるのは、読者の「感情」に訴えかけつつ・肝心な情報はtwitterに決して流さない、東のほうなのではないかな、とぼくは思う。

 文壇において異彩を放つためには、東は文壇の外に排除されている(ことになっている)ような人々に対し開かれた文壇を担保していくヒーローの役割を演じていかなくてはならない。CLANNADとかヤマカンとかそうしたワードは「文壇から排除された(ことになっている)」人たちの共感を呼ぶものとして機能している。

 とはいえ、あくまでも東はインテリであり・彼自身の立場性としては「格調高い生活」を送るものであり、実際のワーキングクラス及び中流階級オタク層は義絶するタイプのライフコースを送っている。

 上のとぅぎゃったーで引用されている発言の意図は、まわりまわって東自身の文壇における保身に繋がって機能しうるものであり、これはもはや東が意図して外せる機能ではない、とぼくは思う。だから、東にこれらの現象の責任はない。まったくない。ぼくはそう考えている。
 ただ、事実として東の立場性はこうした矛盾を作ってしまうものなのだ、として理解することしかできないのではないかなぁ、と思う。
 こういう矛盾を越えられないけれど、こういう矛盾をなるべく覆い隠し、文壇においてもそれ以外の場においてもうまく立ち回ろうとする八方美人で生々しいところが、ぼくが東を大好きな理由の一つなのだ。

 さて。労働者階級オタク層はもっと批判的になっても良いと思う。
 宮台といい東といい、新興の文壇の方々が、自分の食い扶持を確保するために、労働者階級の中途半端に学識の高い「読者」たちのライフスタイルが食い物&見せ物にされていて、かつ、あくまで文壇にこびりつく彼らは、ぼくたちの味方をしているようでいて、結局第一には自分の立場だけを守ろうとしていたりするのである。
 ぼくはそういう二枚舌っぷりを観賞するのが好きなので別にいいのだけれど、そういう意図で文壇ショーを眺めているのではない人たちにとっては、実はこれらは少し不愉快に見えたりはしないのかなぁ。ぼくはそう思ってしまうことがある。

チラシの裏)いやー、宮台の結婚といい今回の話といい、やっぱ東大のひとは下々をコントロールして自分の味方につけたうえで動かす、のが巧いんですかねーぇ!