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【ネタ】Tinted Windows "Kind Of A Girl"のコーラスwow wow! っていう部分をほむらちゃんに変えたらほむほむマジほむほむ。
【ネタ】花粉〜spring〜 「そういう夢ならもう一度逢いたい 春が来るたびあなた(花粉)に逢える そういう気持ちでチクリと心が 傷む」
【仮説】ラノベやエロゲでは10年前に終わったムーブメントであるところのセカイ系は、今更ながらRADWIMPS, 世界の終わり,神聖かまってちゃん あたりで 非オタクのワーキングクラスに受け容れられていったんではないだろーか。
【仮説】オタクと音楽ファンは社会階級が似ている。→秋葉原のマーケティングは「趣味」ではなく「社会階級」
【ネタ】ぽぽぽぽぽぽ ぽぽぽポーカーフェイス♪ (魔まマまァ)
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バンド練→徹夜→ふらふら脳で読むにはもったいない本だったわー……
- 作者: 竹内敏晴
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1999/01/01
- メディア: 文庫
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「『からだ』をモノ扱いしないように生きるとはどういうことなの?」ということを、障害児教育や問題を抱える子どもに関する事例をあげながら考えている。
竹内でいう「からだ」「ことば」「声」は、二重うつしになっている。ひとつは、わたし(教員)にとっての「からだ」「ことば」「声」をこわばらずに表現する、ということ。もうひとつは、ひと(他者、子ども、生徒)にとっての「からだ」「ことば」「声」をどう受け取るか、ということ。この2つが折り重なったうえで編まれた本なので、「からだ」「ことば」「声」を媒介にしての相互行為みたいなものをめぐる内容になっている。
たぶんコミュニケーション的行為の理論とかそういう本たちと関心領域が近いのだろうけど、ハーバーマスがロジックに偏ったり、レヴィナスが無限の他者に宗教性を見いだしてしまったりするよりは、より卑近で身近な現象について語っているように自分にはおもわれた。
なにより、他国の言語を極力用いず、できるだけ簡単な単語をきちんと作り上げながら論を組み立てている点はおそれいる。
- 作者: 中岡成文
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2003/07/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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- 作者: 鷲田清一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2010/02/09
- メディア: 文庫
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筆者の竹内氏は演劇創造とともに障害者教育にかかわっていた。だからか、「からだ」「ことば」がじつは不可分であることにとても敏感である。
教室の権力構造を肯定しないあたり、左よりな言説にもみえる。
ただ、彼の面白いところは、「教師」にたいしてより積極的、有意義なはたらきかけを求めているところにある。「話しかける」ということ、「ぶつかりあわせる」ということを重視する。中途半端な教育の言説でよくいわれる「押しつけ的な教員の働きかけ」を忌避して「生徒にまかせる」というような行為を称揚せず、教師と生徒が真に相互的に「からだ」「ことば」「声」などを交えることができるように、と考えているようだ。
演劇論の部分からは芸術論・美学を、
からだ論(あえて身体論とは言わない)からはデカルト-アラン流の「魂あるオートマティズム」を感じられる良書だったとおもう。
……みずからのからだ、あるいは他者のからだを「操作できる対象」としてとらえる、ハイデガーいうところの「物象化」に抗する説としてはわりと良識的でよくできた本だと思う。他者、子ども、生徒自身がみずからのからだを「対象」としてとらえてしまっている場合、教師が処方すべき薬のリストになっていれば竹内の意図はきわめてうまく達成できたといえるのではないだろーか。
ハッ
ブログやってたんだった俺。
わたしの異常な愛情または私は如何にして心配することを止めて論客を愛するようになったか
「東浩紀氏、三島由紀夫賞贈呈式について語る」
http://togetter.com/li/32371
(以下、文中の敬称は略します)
東、大いに暴れる。
まずはぼく個人の立場として。拍手喝采! ようこそ東! サイコー!!
東みたいに専門職で食ってるわけではなく、ぶっちゃけ社会の下層にいるぼくですから、こうした「開かれた文壇」を求める姿勢に対しては賛辞を示すしかないのです。つーか「閉じてたほうがいい!」なんてオハイソな人たちしか賛成しないじゃん。オハイソな人たちはマジで賛成すると思うけど。新潮にいらっしゃる編集者とか、所得低くて二次元に萌えるようなオタクに対して人種差別以上の敵愾心持ってても、全然違和感ないっす。だって上流階級ってそういうもんじゃねーの?
あとぼく、東、好きだし、読むし。
ただし。
引用:「この発言でぼくは二度と新潮と仕事ができなくなるかもしれませんし、「存在論的」やQFも絶版になるかもしれません。そのリスクも考えました。けれども、ぼくは、ぼくの友人が贈ってくれた花束をそのように扱うことに対して公に抗議をしなければ、ぼくの正義はなくなると考えました。」
ぼく自身はまったくもってインテリではないにせよ、自分の立場を示すことで、なぜぼくは東が好きなのか、東のどういう「嘘」が好きなのかを明示しておきたいなぁ、と思う。
東浩紀の芸風として、こうやって「閉ざされた文壇はクソだ」と言い続けていかなくてはならないのだろうな、というのはよーくわかる。
でも、作品はいったん置いておいて、考えてみたい。東自体の「生活」は「格調高い文壇」の中に取り込まれているし、その中で評価されることに対しては積極的だ(賞を辞退しないことがその象徴)。彼は賞を辞退することはないし、新潮と仕事ができなくなるようなことも実際にはありえない。
東発言問題の在処は、『東が文壇での仕事を失うとかどうとか、東の文題における細かい事情はwebやtwitterに「開かれる」ことはあり得ず、結局のところ「閉ざされた文壇」内における内輪の事情であり、東自身の言動が、東が批判するところの「閉ざされた文壇」を再生産する形式によって行われている、こと。また、webやtwitterで東の言葉を真に受けてしまう(ことが東によって既に予想されている節がある)ぼくたちにとっては、「文壇の事情」は、どこまでいっても「アクセス不可能な事情」でしかない』というところにあると思う。
『東「仕事がなくなるかもしれない!」』というのはただのパフォーマンスであり、
『東「仕事がなくなりはしない!」』という計算ありきの発言でありうるため、その面倒な事情を見抜けない人には東の誠実さ(嘘)が伝わり、面倒な事情がわかる人には東の演技の巧さとあざとさが伝わる、そんな発言として機能している状態なんじゃないかな、と思う。
もちろん、webとtwitterという東さんが選択的にこれらの発言を垂れ流した場に多く存在しているのは、前者の方々だと思われる。実際にデータ出したわけじゃないけどw!
さすが東、二枚舌の使い分け方とバランスの取り方が非常に巧いなぁ。と思う。
試合を見ている間にあずまん @hazuma 連投が爆裂していた。花と祝電は新潮社側の明らかなミス。招待者に過剰な警戒心を持たれたのは(その後の風花前での事件に鑑みても)まあムリもないんじゃないの。べつに「文壇関係者以外」がどうこうという問題じゃない気が。
(@nzmの発言).@nzm そういう問題じゃないんで、事情をわかってから言っていただきたいかなと。
(@hazumaの発言)大森望さんのバランス感覚には敬意を表しますが、今回はそういう「ネタ」で落とすつもりはあまりないのです。
(@hazumaの発言)
東は大森のバランス感覚に敬意を表しつつ、かつ「だが自分はバランスを失いつつも感情的になりつつも、これだけは言わなくてはならないのだ」といったスタンスでいる(つもり)らしい。けど、真にバランス感覚があるのは、読者の「感情」に訴えかけつつ・肝心な情報はtwitterに決して流さない、東のほうなのではないかな、とぼくは思う。
文壇において異彩を放つためには、東は文壇の外に排除されている(ことになっている)ような人々に対し開かれた文壇を担保していくヒーローの役割を演じていかなくてはならない。CLANNADとかヤマカンとかそうしたワードは「文壇から排除された(ことになっている)」人たちの共感を呼ぶものとして機能している。
とはいえ、あくまでも東はインテリであり・彼自身の立場性としては「格調高い生活」を送るものであり、実際のワーキングクラス及び中流階級オタク層は義絶するタイプのライフコースを送っている。
上のとぅぎゃったーで引用されている発言の意図は、まわりまわって東自身の文壇における保身に繋がって機能しうるものであり、これはもはや東が意図して外せる機能ではない、とぼくは思う。だから、東にこれらの現象の責任はない。まったくない。ぼくはそう考えている。
ただ、事実として東の立場性はこうした矛盾を作ってしまうものなのだ、として理解することしかできないのではないかなぁ、と思う。
こういう矛盾を越えられないけれど、こういう矛盾をなるべく覆い隠し、文壇においてもそれ以外の場においてもうまく立ち回ろうとする八方美人で生々しいところが、ぼくが東を大好きな理由の一つなのだ。
さて。労働者階級オタク層はもっと批判的になっても良いと思う。
宮台といい東といい、新興の文壇の方々が、自分の食い扶持を確保するために、労働者階級の中途半端に学識の高い「読者」たちのライフスタイルが食い物&見せ物にされていて、かつ、あくまで文壇にこびりつく彼らは、ぼくたちの味方をしているようでいて、結局第一には自分の立場だけを守ろうとしていたりするのである。
ぼくはそういう二枚舌っぷりを観賞するのが好きなので別にいいのだけれど、そういう意図で文壇ショーを眺めているのではない人たちにとっては、実はこれらは少し不愉快に見えたりはしないのかなぁ。ぼくはそう思ってしまうことがある。
(チラシの裏)いやー、宮台の結婚といい今回の話といい、やっぱ東大のひとは下々をコントロールして自分の味方につけたうえで動かす、のが巧いんですかねーぇ!
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http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/g1012150001.html
まぁまずは本文読まなくちゃね
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/15/news074.html
改正案の問題点として、(1)あいまいな規定でいくらでも恣意的に解釈でき、幅広い作品が対象になり得ること、(2)漫画などの表現に対する萎縮効果が高く、日本のコンテンツ産業に大きなマイナス影響を与える可能性があること、(3)審議期間が極端に短く、拙速に成立に向かっていること――などが指摘された。
「文化や芸術はその時代の倫理や教育とかい離がある場合があるが、それを描くことも役割だ」――呉さんは文化論を展開。「例えば井原西鶴の『好色一代男』は、6歳の少年時代からの性の遍歴を描いている。1つの人間の姿を描いているのだから、単純に倫理の問題として裁断し、政治が介入するのは危険」(呉さん)
改正案が「子どもを健全に育てたい」という善意の発想から成り立っていることへの危険性の指摘もあった。「規制側は、目の前の正義感や倫理観で話すのだろうが、表面的な正義が見えないところで闇を大きくする。キャラクターまで対象にするのは、子どもの環境をあまりに狭く考えすぎている」と里中さんは懸念する。
0/はじめに
あのさ。いや、落ち着こう。
ぼくは今回の都条例案については反対の立場です。なので政治的にはこれを喋っている方々と同じ立場に立ちます。
ただ、都条例案賛成の立場の気持ちもわかります。
性の低年齢化、情報のアクセスのし易さはもうどうしようもないところまで来つつあって(現状)、
子どもを健全に育てるにはどうしたらいいか? ととまどう親や教員や地域があって、
それに対してクリエイター側は「政治が介入するのは危険」という。
じゃあ一体だれが親や教員や地域や子どもを守ってくれるのですか? という疑問はたちますね。つーかたたざるを得ない。
1/筆者立場
ぼく自身はY太先生とか愛読しますし産卵よりは異種姦よね♪とか宣ったり眼鏡にかけたい! とか思ってたりするような糞野郎なのです。そういう立場なのです。規制なんてされたら「困る」、そういう人間です。どう考えても規制には反対、です。
ただ、この立場だけで日本が動いてるわけでもねぇんです。規制反対派はなぜ賛成派が「拙速に成立に向かわせ」たかったのか、くらいまでしっかり理解したうえでこの問題を捉えてください。マジで。
2/反対派の問題点
ぼくは一部の規制反対派に対して徹底的に反対します。
彼らは「表現の自由」を「僕らの欲望がみたされないこと」と単純な読み替えを行っています。彼らにとっての「自由」とは、「放恣」です。やりたいようにしたい、と子どもじみた欲求をぶちまけているだけです。
そのように市場を作り、金を落とし、自分の欲望をみたしていることにたいして、社会的に責任を持つ必要はないのでしょうか。……まぁポルノ見ることに対して責任とかぎゃーぎゃー言うのはナンセンスですね。ぼくもそう思います。でもポルノを広めてアクセス可能な状態にしていっていること、その結果として社会の一部が拒否反応を起こしていること、それくらいは自覚してますよね? それとも「自分はわるくないもーん」って開き直って生きていくんでしょうか。ハタ迷惑ですねーwポルノをがっちり甘受している人間だからこそ、その業界にとても詳しいのでしょうから、どういったシステムを作ればポルノを避けることができるか、という議論にも加わってください。という言い方もできるとおもうんですが、いかがでしょうか。
3/賛成派の問題点
ぼくは一部の規制賛成派に対して徹底的に反対します。
彼らは「自分の嫌いなものはあってほしくない」と考えています。「規範意識」という権威にのっとって、単に自分の気に入らないものを制限したいだけです。
めんどくさいヤツですね。虎の威を借る狐とはこのことです。彼らにとっては「健全」さは一つしかないんでしょうか? つーかこういうふうに自分の嫌いなモノを全部消したがる方ってどんなセックスしてるんでしょうか、ねー。この方々は「自由」についてもう少しお勉強なさったほうがいいでしょう、とも思いますが、ぼくは若干この方々をかわいそうだとおもっています。
いずれにせよ、どちらの立場も「好きなモノは好きだから仕方ない」「嫌いなモノは嫌いだから仕方ない」という価値判断だけに立脚して、他の価値の多様性を認めることができていません。
すなわち、民主主義の原則である「自由」と「自由な個」についてまったくわかっていません。
4/今回の議論の構造的な問題点とか。
現状、ある程度見識がある方々は、規制反対派だとしても「ある程度業界内で自主規制あるいはゾーニングによる規制を行わなくてはならない」と述べています。宮台は完全にゾーニングをすすめるべきだという前提で*1話をしているようです。
ただ、コンテンツビジネスであるところの漫画において、「売れる・売れない」が第一義となり、そうした自主規制やゾーニングはうやむやのうちに立ち消えていく、という実情は否定しきることができないでしょう。また、平易に情報にアクセスできる環境がケータイ・PCにより整っていますから、結果として低年齢層が望ましくない表現に触れ、親や教員はどう指導すればいいのか、途方に暮れるわけです。一定数以上「規制してほしい」と望む方々がいる現状を、規制反対派は、重く受け止められるべきです。これを対症療法的に「今回は成立しなかった」「やったー!!」の繰り返しで済ましていれば、いい加減親も教員もキれると思いますよ。
ぼくの意見としては、別に教員はどうでもいいんです。彼らに期待はするだけムダです。法律も社会的価値観も、今は彼らに権威を与えていません。権威に守られない教育や教育者は脆弱です。だから教育に期待をしても、現在の制度ではムダです。
親がかわいそうです。親を、だれもまもってはくれません。社会的通念、常識、一般論が親の指導の下支えになっていた時代がありました。その頃は、創作も社会的通念、常識、一般論に抗する形で花開き、そして親は子どもを叱責することができました。
今は、社会的通念、常識、一般論の底が抜けています。
コンビニでたむろしてエロ雑誌を読みふける小中生を誰が咎めますか? むしろ、咎めてもいいのですか? そんなもの「勝手だ」ということになっているのではないですか?
5/ルール、マナー、モラル。
ルール、マナー、モラルが成立しないから法律で縛る、というのは、短絡的で望ましくないとぼくは思うのですが、その一方である種しかたないことなのではないか、とも思うのです。
児ポのときもそうでしたけど、もうすこしだけ、賛成派も反対派も互いの*2立場に目を向けるといいと思います。
「自由とは何であったか」「公共の福祉とは何であったか」というふるくてあたらしい問題や、
「現状こうした議論が起きている原因は何か」という現状認識の問題や、
「法律、ルール、マナー、モラル(道徳)、倫理をどうつなげていくか」という問題を考えるきっかけになると思うので、ぜひ考えてみてほしいところです。
ぼくとしては、ルール、マナー、モラル、倫理としての社会的通念・常識・一般論の再構成か、そうでなければ自由概念についての正確な知識の教授を解決策として求めたいところです。*3これしたからって解決するわけじゃないんですけど、議論を議論として成り立たせるための条件にはなるんじゃないかと。
いいかげん。対症療法は。やめにしないと、時間の無駄です。