日差しが穏やかすぎてふと立ち止まりたくなるような朝、しかし僕はダイヤを正確に守ることを信条として感傷を排除したかのような鉄のかたまり、つまりバスに乗っていた。あまりに木々の緑と道路の灰の色的なコントラストが綺麗だったので、涙が流れそうになった。涙ほど僕にとって安いモノはないのだけれど。その涙は、「働いたら負けかなと思っている」とかしゃべっていた友人が、失恋してしまい泣いた日に見せた綺麗な涙の色に似ていた。働いた場所で負けるとわかっているから、働いたら負け。勝ち負けがついてしまうような世の中に生きて行かなきゃいけない僕や彼を哀れむ歌は、たぶんどこにもない。そんな風に思っていると、頭の中でドブロ・ギターと思しき音が鳴り始め、僕は演歌にも近いあのブルーズとかいう音楽を思い出す。あんな労働賛歌+哀歌が現れたのは、きっと今僕が抱えているこんな感情に近いモノからなのではないか、そう思ってみる。
 バスはもうすぐ駅に着く。そこで乗り換えなくちゃいけない。僕は窓際の席に居て、通路側の人にどいてもらわなくちゃいけない。そんな当たり前のことをやるだけで億劫な自分に少しだけ焦りを覚えてしまう。どんなときも勤勉になりきれないことは日本人としてどうなのか。問いかけているうちに、ある種の劣等感が僕をさいなみはじめる。実際に働いたことはないくせに、根拠なく抱いてしまっている劣等感が、きっと僕にブルーズを歌わせるのだ。
 頭の中で回っているその音楽のヴォリュウムが大きすぎたせいで、隣に座っていた人が僕に何か言ったのを聞き逃した。きっと、社交辞令くらいを言っていたのだろうと今までの経験から判断して、軽く会釈した。愛想笑いを浮かべて去っていった。のはたぶん僕だけ。
 学生とかいうはっきりしない身分に甘んじていれば、自分の価値観の中に浸っていられる。そう考え始めたのはいつの時だったか。乗り換えたバスに揺られながら、これからの自分の人生なんてものを想像しはじめる。
 たばこは吸えない。酒は飲めない。麻雀は打てない。やっていけない。それにつきた。
 文章を書くのが好きだったけれど、飯のタネにはならないと思う。
 このまま当たり前に生きていくのならそれもいい。もっと精神的に幼かったころは、自分にしか見えないモノを他の奴に見せつけて、自分がいかに優れた人間かということを誇示したくてたまらず、早熟と呼ばれたくて、能力を求め教養に触れ、学を衒い人を嘲り、常に逆説を唱えてみたりしていた。何も残らない。何も生まない。ただ肥大した猜疑心・虚栄心があるだけだ。結局僕には優れた能力はなく、くだらない気負いだけがあっただけだった。だからこそ失ってしまった「フツー」を求めるのは悪いことじゃないはずだ。