自分がblogをやっている*1意義は他人に見せるための文章を書く練習であったり、自分が微妙に感じたりしたことを忘れないためであったりするのだという前提に立って、ちょっと自分のためだけの真面目なメモをしておこう。物事をズバズバ言うことと人を決め付けることは別物。文化相対主義を他人に押し付けるのはそれすなわちある意味では自文化中心主義。我が強いということはプラスでもマイナスでもなく単純に事実を述べているだけ(の人もいる)。事実の記述と自意見の表明の区別はそれを発した人間にしかわからない。わからない、と決めつけることは早計。どこまでも堂々巡り。そこでくだらない、面白い、と笑えるひとは自分の立場を相対化しているだけではあるけれど悩む人間とどちらが高尚か? それを比べることこそすでに堂々巡り。どちらも優越感を持って知識人の嗜み的な意識を持って笑うか悩むかする。個人と個人と個人と個人のそれぞれの間に違いはないのだけれども違いはある。忘れるな。ゆめ忘れるな。忘れたとしても本質を見誤るようにはなるな。俺は決め付けが多い。決め付けが多い、とすでに決め付けている自分がここにいる。俺は我が強いのかもしれない。実は弱いのかもしれない。無能だ。有能だ。あらゆる面を見ろ。お前が見られる面は少ない。多いとしてもすべての人間が異なる見方をしていることを忘れるな。お前の主観を捨てろ。しかしお前の主観は常に正しいしかも捨てられない。誰かの主観も常に正しい。ゆえに正誤で判断するな。正誤で判断する方法を利用して妥当性を判断して正しさがいくつも成立することを、誰かの意見の「一理」がいくらでも増殖しうることを、しっかりつかめ。至らない自分の自覚と至ろうとする自分の努力を自虐せずに誇れ。失敗で傷つく安いプライドはいらない。苦しみは機会成功は実を結ぶ。人生に後退はない。そういう主観を手に入れろ。その代わり現状判断はできるだけ冷徹に行え。自分の至らなさを自覚して誇れ。足掻け。鼻につく自意識過剰。過剰さという美しさ。過剰さという醜さ。自覚。

自分が優位に立っているときだけほざく決め付ける棚に上げるという自分の性格がどうしようもなく変えられないような気がするがなりたい自分がどんなものか念頭に置いていればどうにかなる気はしないか? それすらも決め付けとしてあざ笑うのか?

とりあえず肝に銘じたいとおもいます。

*1:それならこういう備忘録っぽいものを他人に見せるのは露出趣味か露悪趣味か露善趣味かのどれかに当たるので気持ち悪いなと思うのだけれども