小説鈍行中。ていうかPCしばらく触ってなかったり。地元に帰ってきてネットし放題だというのに教習所のせいで地味に忙しく且つ暇で怠惰な日々が! こんなことなら北関東の僻地で燻っててもよかった気がなきにしもあらず。これから少しずつ忙しくしていこうと思ったりはしてみるのでコンゴトモヨロシク! ヨロシクしてくれるような面子しかどうせ見てないこのブログだけれども。

昔日本の彫刻全てを否定しているひとにあったことがある。彼(もしくは彼女)は、ヨーロッパ全体に流れるギリシア・ローマ的な肉体の美を求める観念が日本人に欠如していると言った。彼(もしくは彼女)があまりにも興奮してそれをのたまいまくるので俺はうんざりした覚えがある。途中から彼(もしくは彼女)は白人の裸体の美しさ、均整と黄色人の裸体の卑小さをひたすら叫ぶようになってしまい、最後には俺は話をまともに聞く気さえなくしてしまった。絵画においては完璧すぎる均整の美はあまり重視されない裸体画もあったじゃないか、むしろ肉付きのいい女の方が美しいと考えられた時代があったじゃないか、あなたは痩せ形が良いなどと言う今風の価値観に染まっていて、あなたが見る芸術作品も全部その価値観に沿うようにゆがめながら見ているんじゃないか、と言いたくなったがやめた。はっとしたからだ。俺も同じような決め付けをしていないはずがないと思い当たってしまったからだ。ただそれだけの話だ。ただそれだけの話なのに、急に自分が醜くなったように感じてしまう。あのとき、あまりにも興奮してのたまいまくる彼(もしくは彼女)を、それまでは自らの博識を奥ゆかしく見せてきた知的な人物がわれを忘れる姿を、俺は、軽蔑しながらも、少なくない彼(もしくは彼女)への共感を覚えていた。それはきっと自分にもある醜さを彼(もしくは彼女)という成人で聖人じみた人間に見出せたからだったのだろう。それら一連のことを俺は匂いとともに思い出す。それを語られた、田舎の駅の、草の匂い、夏の汗の匂い。憧れが幻滅に変わるその記憶なんて何の印象にもならない。俺の追憶にはいつも臭覚がつきまとう。そして俺は醜さを夏の草の香りになぞらえつつ自分の価値観を絶えずズらしていこうと試みる。既に凝り固まった観念から抜け出せず、感情的になるような人間を心の底から冷笑しながら、いつか同じようにして冷笑されるだろう自分を心の底から恐れながら。いつしか俺は夏の香りを嫌うようになった。条件反射とは、そういうものだ。もともと好きだった夏の香りが、嫌なものに転化する。こんなことで理解したくもなかったが。