〜でもぼくは大丈夫なのさ(くだらないクリシェをきく)

きのこの形の雲がたつ、いのちを費やし火がともる。大いなる日の本のクニを、太陽と同じ光がおそう。

ヒロシマナガサキ。安っぽい同情を差し挟む余地がありすぎるほどに日本人にとって痛い核の体験。戦争とかそういったものを政治的措置として(本来はそうだよね?)とらえずに絶対悪としてとらえて、ハンタイハンタイと叫びまくるサヨクぃ人たちのことを、いつもの俺は大好きですが、八月のこの時期になると嫌いになります。学校教育で洗脳されたせいか、とかく核のことになるとどうしても俺は過度にシリアスになります。でもそれを悪いとは思いません。核はとりあえず手に負えねぇ。ギリシャ神話だ。人間は太陽の力を手にすることはできねぇんだよ。やろうと思えば太陽それそのものに焼き尽くされるんだよ。
原爆とか水爆とか、核爆発なものどもは、よく地獄にたとえられます。しかしながら地獄というものは昔から或る意味では「どうしようもなく惨たらしい」点における極まった美しさをも認められてきた概念であります。では、核は美しいのか? 一瞬で陰だけを焼き付けた以外はこの世に存在した痕跡を残さず消える、人間の死とは到底いえないような死を強制する核に美しさを認める奴がいるか?
まぁ、必ずどっかにはいるだろう虐殺フェチ野郎はもしかすると勃起して射精したりするのかもしれませんが、俺はそうなれません。なぜなら核はこの世にあるからです。この世は地獄でも天国でもねぇ。現実だ。現実の埒外にある地獄ならば、「どうしようもなく惨たらしい」中に美しさを認めることもできるんだろーけれども。地獄は概念だ。本からそれに対する畏怖と憧れが同居している概念だ。地獄は自分が体験することのない責め苦の連続だ。俺=あたりまえの人間としての人間と仮定された俺、は地獄の責め苦を自分が受けないことを知っている。そうなるべき自分はすでにこの世のものではないことを知っている。ゆえに地獄には、美しさと残酷さという、人間の概念的性質から出てきたんではないかと思われてしまうよーな奇妙なアンバランスな概念が混ざる。
一方、この世はこの世だ。憂き世だ。自分はその責め苦をマジ体験できる。そうなれば、美しさなど感じる間もなく死ねる。死らしい死を与えられず存在を消される。蒸散する。圧倒的な熱量の中において俺というタンパクは消える。
ああ、あああ。そうだ、そうなのだ。俺は原爆によって死ぬ可能性があるが地獄の責め苦によって死ぬ可能性をもたない。そして、この可能性というやつはどんな風に転び、人生をドライヴするか誰にもわからねぇ。だから俺は原爆が怖い。嫌悪する、憎悪する、それによって死んだ人間をすら避けようとも考える。エゴイストと言われなくても自覚はある。俺は核のすべてを憎悪していると思う。理性なんてこうなったら機能しねぇ、俺はそこまで自己犠牲なんかできねぇ。だって自分にそれが降りかかってくるのが怖いもん。
日本全国にある原発が吹っ飛んだらあっさり日本が放射能に沈没(もしくは死亡)な現状、核爆弾も核反応炉も俺はいらねーと思ったりしますが、それはマジでこんな情けない理由なのです。核で死にたくねぇ。
他人のためを振りかざすサヨクちゃんたちが嫌いになるのは、いつもはおもしろいおもしろい、と見下しながら見ている彼らが、こういう時期限定で自分より高尚な、自己犠牲精神にあふれた人たちの群れに見えるからです。
そして、地獄を礼賛しようと思えば出来る程度にひねくれている自分が核を礼賛できないのは、偏に自分が核で死にたくないからです。
こういう考え方を植え付けてくれたのが日本の学校教育っていうマインドコントロールなら、俺でも教員になれるんじゃないか、って最近思うようになりました。就職口よこせ。以上自分ちの車窓からnyaroがお送りいたしました核爆発的レクイエムでしたー。