よみたきゃよむな
よむならとめる

無視できる奴だけどーぞ、重いよ?



 ◇◆◇ 土曜日

 いろはにほへと

――ぼくはずっと前からゴミのような人間が沢山集まって「ひとごみ」という単語ができたと信じていた。国産海外産問わずテレビに映る大都会は、いつでもゴミと人にまみれていたから。

 辞書を使って正しい意味を探したわけではないのに「なんとなくの理解」だけで使っている言葉はネイティヴランゲージには多いと高校時代の先生に聞いた。そしてそれは往々にして誤った概念になってしまう、とも聞いた。たぶんそのひとつとして、ぼくはヒトゴミという単語の「なんとなく理解」で間違いを犯してしまったのだ。しかして実際、この7月の雨の日に、こうやって人混みの中に自分を滑り込ませると、途端に腐臭に似た雰囲気に取り巻かれて、それがぼくにとっての「ひとごみ」という単語を実感させる。きっともうぼくはヒト=ゴミという妄想から離れられない。折からの雨で人と都会の入り混じった悪臭は少しだけ流されてくれてはいるのだけれど、肉塊の量が減ったわけではなく、灰色の空と相まってぼくをそのまますり潰してしまいそうなくらいの圧迫感をひねり出してくる。それが、のこのこと田舎から出てきたぼくが、旧友に会うため初めて出向いた池袋に対して抱いた印象だった。
 酸素が足りない。ほんとうならぼくが吸って脳細胞を回転させるために使う筈だったo2分子は、ぼくの周りに蔓延るゴミたちによって使われてしまった。いやしかし、ぼくは既にそういうゴミたちの中に混ざり込んでしまってはいないだろうか? ゴミになって腐り続けているのはこの空間にある全てのものだった。ならば、ぼくもまた腐り始めて腐り終わるまで腐り続けるのだろう。こんな場所で深呼吸をしたとしても、スモッグと二酸化炭素と黒ずんだ水蒸気を肺に取り込む以上の働きは望めない。発ガン性物質を肺に取り込みたくないと今更のように思う。けれど、呼吸を止めるわけにはいかず、ぼくは必死になって、金魚がぱくぱく喘ぐような呼吸を無様に繰り返す。ほら、みんなも一緒にぱくぱくぱく。みんなと一緒にぱくぱくぱく。そんな下らない想像を掻き立てられてしまいそうなくらいには、ぼくはこの場所にうんざりしていた。
 数え切れないくらい、何度も人とすれ違う。誰もが、どこを見ているのかわからない。とりあえず瞳の中には灰色のアスファルトと灰色の空が映りこんでしまうから、濁った色の眼が漁港に水揚げされた魚たちのように並ぶ。感情が読み取れないから、すべての人間が球体関節人形に見えてしまい、とても愉快だ。騒音で飽和した聴神経と三半規管が不気味な沈黙と不安定な足場に絶妙な演出を与えている。明らかに五月蠅すぎる都市のなか、ぼくには何もきこえない。「バロック」ということばのようだ。ぼくはバッハを思い出し、その荘厳なフーガの調べに心の中で身を任せ、この街に折り重ねてみる。いびつな繁華街はどこまでも無機と有機が混じり合い、常に変動していて、美しい。ビルと人は不釣り合いな調和を醸しだしながらありがちな都会の風景をつくっている。個々の成分を変えながら、本質的には街としての意義を失わない。ぼくはいつもこのシステマティックな仕組みに感動を覚える。都市とバッハの調べを重ねて感動する。そう、大嫌いだ。
 誰とも目を合わせたくないので、街に取り憑いた亡霊のように排水溝へ流れ落ちていく雨水だけを凝視しながら歩いた。

 ちりぬるを

 ホテルの直ぐ前には小さな川があって、川幅の割には大きな橋が掛かっていた。辺りに街灯はなく、ただ足下をうっすらと橋に取り付けられた蛍光灯が照らしている。ビルの灯も店の灯も消え、人の気配もない。静まりかえった夜、雨音は喧しく響き渡る。アスファルトに当たった水は均一な音を響かせ、ぼんやり滲んだ光が橋の足下を青く染める。
 洋一は飲み会の帰り、一人になって雨に打たれ、素面に戻りつつあった。先ほどまでの気分の良さはどこかへ消えてしまった。家に帰れば口うるさい女房に給料と「家庭における父親の果たす育児責任」について文句をつけられると分かっているし、仕事も溜まっている。そこそこの実力を認められ多く仕事を与えられるようになってからは、なぜか昔、上昇志向が空回りし、碌な仕事も貰えず悶々としていた頃の方が楽で楽しかったように思えてくるのだ。責任感と義務感。少しだけ異質ではあるが、会社においては同時に抱えざるを得ない二つの負担を得てしまった彼は、そこからの逃避として、大学時代は好きでもなかった酒を飲み、積極的に酔っぱらっていろいろなことを忘れてしまうよう心がける。
「やっと酒の味がわかるようになった、ってか」
 口の中で出かかった言葉を噛み潰した。先ほど食べた焼き鳥の香りとアルコールの臭いが混ざって鼻につきあげてくる。不思議と苦味だけを感じた。
「畜生」
 誰にともなく当てた罵声は洋一の耳の中で強く響いて、それが洋一をさらに滅入らせた。



 いろはにほへと

 待ち合わせの場所だった109まで歩いていく途中、街路樹にもたれながら雨にうたれている少女をみつけた。田舎じみた野暮ったさをうかがわせるセーラー服(夏服)が透けて、ぼくは目を奪われる。過剰なほどカラフルに着飾った少女たちが溢れるこの場所に溶け込めずに一人立っている。だからなのか、雨水のヴェールによって存在感を希釈されて背景になってしまうこともなく、彼女はぼくの視界のなかでまるでプリ・マドンナのようにはっきりと輝く。やがて、彼女の垂れ下がった黒髪とぼくの眼鏡を通して目が合った。会釈をされたので、ぼくも会釈を返した。彼女は顔を少し伏せたままで口を開いた。
「あなたも、ここでなにかしようと思って、きたんですか?」
 寒さのせいか、それとも知らない人間に対して警戒しているのか、細い声は震えていて、響き渡る雨音と街のざわめきにかき消されそうだった。
「いや、ぼくは友達に会いに来てるだけ。……なんで、ぼくも地方から出てきた人間だってわかったの?」
「だって、私を見たから」
 彼女はそう言って、はじめて顔を上げた。濡れた髪がまとまって重たげに後ろへなびいた。大きめの目と小さめの鼻、うすめの唇で構成された当たり障りのない顔を、ぼくはひどくなつかしいものに感じた。
「君を見てたからって、ぼくが地方出身だとは」
「わかりますよ。同じ匂いがしなかったら、私なんてきっと見つけてもらえない」
 なるほど、今まで実際に見つけてもらえなかったからか、彼女の言葉には現実感なるものが篭っているように感じた。ぼくはなんとなく彼女とかみ合わないものを感じながら会話をつなげた。
「どこから来たの」
「金沢から。高速バスで」
 たしかに、近くに高速バスの停留所があるのはよく知っている。ということは、バスから降りてそのままずっとここに座っている、ということか。
「ん。奇遇だけど、ぼくも高速バスで来たんだよ。北関東からだけどね。あとは山手線を活用しまくりってわけだけど」
「……そんなこと、どうでもいいです」
 彼女は、もうすでにぼくに心底うんざりしたように見えた。そのくせ会話の切っ掛けを探しているようにも見えた。
「何しに来たの?」
 訝しげな気色をわざと混ぜてみた。彼女は少しだけ後ろめたそうに答えた。
「ここに来たかっただけです。時間が止まってしまったような田舎はもううんざりだったから」
「何か変わった?」
「止まってたのは私だったって分かりました。私は変わるはずないです。だから私はここで止まっているんです」
「……とはいえ、そこにずっと止まってたら帰りのバスが来ちゃうんじゃないかな」
「どういうことですか?」
「いやさ、その街路樹の横に、なんかいかにも『田舎から来たよー』って雰囲気の団体さんがいるじゃない? 屋根付きベンチの下あたりに。あれ、多分帰りの高速バスを待ってるお上りさんたちだよ。君もその一団に加わってしまえば、帰れるんじゃないかな。金沢にさ」
 言いながら、視線をそっちに向ける。ディズニーランドの袋を持った四人家族が何組か見える。楽しげに笑っていた。そのうちの一団体はみんなポロシャツの裾をシャツの中に入れている。彼女は少し驚いたような顔をした。
「はじめて知りました」
「そりゃ重畳だ」
「じゃあ私、あの人達と他人のふりをしてればいいってことなんですね」
 言い方に少しだけ棘を含ませた。
「帰る気はないの?」
「ありません」
「そっか……なんなら、ぼくんとこにいったん来ない? ま、こっから隣の県まで来なきゃいけないんだけどさ」
「嫌です」
「じゃあ、これからどうすんの?」
「できれば誰にも構われないことを望みます」
「つまりぼくは」
「邪魔です」
「……言葉きついなっ」
「別に通りすがりの人にわざわざ気を遣う必要なんてないですから」
「じゃあ君は正直者?」
「……どうですかね」
 ぶっきらぼうな口調とは裏腹に、彼女の表情は少しずつ和らいでいく。こうやって当たり前の会話じみたコミュニケーションを装うたびに、自分は、わりと精悍で、しかも卑屈な笑顔を浮かべているのではないか、と思う。ナンパ野郎。吐き気を催すほど醜くゆがんで水たまりに映った影は、雨の滴が落ちるたびごとにぼくをあざ笑うように揺らめいては消えた。

 しばらくそのまま突っ立っていた。やがて高速バスがやってきて、家族連れの人たちはぞろぞろと乗り込んでいった。何人か見送りの人もいるらしく、オバサンたちが何人かバスの外に残って手を振っていた。彼女はその光景を見つめながら、つぶやいた。
「私はきっと死にに来たんです。誰にも知られず、ネコみたいに。自分の終わりを見つけたいんです。今は」
 彼女は舌を噛んでしまったかのように顔をしかめる。ぼくはそろそろ嫌気がさしてくる。自虐的内向的な典型的少女は、嫌いだ。
「私は……帰る場所とか居場所とか、そんなものを探す奴らが大嫌いだったんです。今だって大嫌いなんです。必死になって自分のことを自分の周りにわからせようとして、自分を自分を、って自意識むき出しにして。……でも、そうしないと生きていけないんです。私が。私、今、すごく家に帰りたい……けど、帰りたくない。それで、ちょっとずつ私が私を嫌うようになって、止まらなくて」
「他人は君をそんなに安直に嫌ったりはしないと思うよ、ってぼくが言っても何の救いにもならないかな? こういうときは」
「いえ、うれしいです。今の私の悩みとは全然関係のないところで」
「そっか」
「とにかく、私はすごく怖いんです。つらいんです。でもこの気持ちを誰もかもに味わってほしいんです。汚いですよね私。汚いんですよね私。嫌な人間なんですね私。嫌な人間なんですよね私!」
 どんどん大きな声になっていく彼女をぼくは冷ややかに見つめることしかできない。
「そっか」
「……っ、ぃ」
 声を詰まらせる姿を見ても何の感傷も抱けない。自分の中で感情が凍えて固まっていく。辟易する。
「そっか」
「……死に、たいよぉ」
「そっか」
「……死に、たっ……いよお」
 ぼくにはもう何も言い返す言葉はなく、嗚咽する彼女をのんびりと眺めていた。思えば名前も知らない女の子とこんなにしゃべったのは初めてのことだなぁ、なんてことを考える。なんでこんなふうに面倒な会話になっちまったんだ? 泣く子にゃ勝てない、ってのは本当だ。ぼくは頬を掻いて手持ちぶさたな現状をどうにかやりすごす。泣きながら彼女はさっきからしゃべっていることと同じようなことを漏らし始める。その中に雨音がフェイドインして、どこかで聞いたようなメロディもしくは言葉、を擦り切れたレコードのようにつぶやき続ける彼女を少しずつ、銀剥がしのようにかき消していく。変わるとか終わるとか自分とか汚いとか。そんなに怖いものだったのか、と思う。とりあえずぼくは持っていた傘を差し掛ける。彼女はとっくにずぶ濡れになってしまっていて、今更そんなコトをしても意味がないとわかっているけれど。雨はどうしようもないほどに降り続いていて、彼女の涙も泣き声も優しすぎる灰色に閉じこめて押し流して混ぜ込んでしまう。刹那だけでもそれを止めてあげられたら、とぼくは思う。あくまで自分の精神的衛生のために。
「私に生きる資格とか、権利とか、そんなの、きっとない……」
「じゃあ取れば?」
「……」
「今流行ってるしね。資格。取ればいいじゃん」
「何ですか、それ……」
 彼女は涙を流すことをちょっとだけ忘れたような顔で、呆気にとられる。そう、それでいい。軽薄な踊りをするぼくを、しばらくだけ見つめてみるといい。
「生きる資格。取ってくればいい。君が君を生かしていいと思えるよーな資格。誰も教えてはくれないだろうけど、多分取れるものじゃない? なんてったって、資格なんだから」
「……馬鹿みたい」
「誰が」
「あなた」
「ひでぇなぁ……」
「馬鹿って言った人も馬鹿だから……私も、ばか」
「なら、お仕置きだな」
 こつん、とげんこつを彼女の額に当ててやる。ほんの少しだけ彼女を茶化した、それで、たったそれだけのことで、何か憑きものが落ちたように感じた。ぼくの周りのうざったい雨音というSE、擦り切れたレコードとしての彼女、彼女について理解する気をなくさせるハム=ノイズじみたぼくの幻滅、それらが一気に振り払われる。
「ねぇ、もう一回聞くよ。ぼくについて来る気はない? 今丁度夏休みでね。友人のとこに遊びにいくんだ。一夜の飯や宿や風呂くらいは提供できると思うよ。そいつが」
「……えっちなこととか強要したり、しませんか? 私、東京ってそんな人ばっかりだって聞いてるんです」
「あー……それは多分、ないよ。君みたいな子どもにぼくは興味ないし」
 それにぼくは東京人ってわけじゃないよ、と言葉を続けたが、なぜか彼女はむくれてしまった。そっぽを向きながら言う。
「あなたの友人さんとやらはどうなんですか?」
「あいつ? あいつかー……まぁたぶん大丈夫さ、同郷のよしみで」
 実はロリコンだった、とかそういう話は今のところ聞いていないから。ただ、同い年の女たちとの浮いた話も奴にはないだけなかなか不安要素ではある。実はそういう趣味でした、だから今までいろんな大人の女性に言い寄られてもつきあってませんでした、とかいうオチがついたりしたら困る。事実、奴は黙っていればちょっとした美少年で、年上にいつも言い寄られてはぼくに愚痴をもらしていたりするのだ。彼女はぼくのそうした逡巡には気づかない。
「同郷?」
「うぃ」
「つまり金沢出身ってことですか?
「そう」
「北関東から来たって言ってたじゃないですか」
「いや、なんていうかね。今はそのへんに住んでるけど、実家は石川県なんだよ、ぼく。あと、今から会いに行く奴もそう」
「……」
「いやさ、その制服見てびっくりしたんだよ。見慣れてたし」
「じゃあ、私があなたを出てきた人間だ、と思ったのは」
「二重の意味で大正解、ってとこだ。田舎から出た、そしてその出たところからさらに出てきて今此処にいる、ってことだ。どう? ちょっとはぼくを信用してついてこない?」
 きっと、こういう甘い言葉でだまくらかす輩が一番危ないんですよね、と毒づいてから、彼女はぼくに笑って見せて、
「じゃ、お願いします」
 とだけ言った。あー。

 109に着いたらユウがいて、
「何やらかしたこの犯罪者」
 すぐに殴った(ユウが)殴られた派手に吹っ飛んだ怒鳴られた(ぼくが)。
「は、話せばわかる!」
「問答無用! ロリコンめ。なんてうらやまし……ごほん、なんて――鬼畜」
「そうゆう想像をやってのけるお前が鬼畜だろ。ぼくは無実だ潔白だ」
「くぅ……口だけは減らねぇな昔っから!」
「……とりあえず、大丈夫ですか?」
「多分。えーと、こちら、同郷人かつ家出人の……名前、なんてったっけ」
「サトミです」
「そう、サトミちゃん。ユウ、別にぼくの恋愛対象とかじゃないよ。単純に人助け」
「……信じられねぇな」
「信じれ」
「一応、今助けてもらってる最中です」
「ほら、本人の証言が」
「脅迫された証言は無効だって法律知ってるか……この人間の屑が。俺の手で裁いてやらんまいか! やらんまいか!」
「だっから違うっつーの」
 冷静さを失ったユウはしばらく厄介だった。

「……するってぇと、サトミちゃんは何の当てもなく東京まで来た訳か」
「はい」
 とりあえず不二家レストランに入ってそれぞれコーヒーなど飲みながら落ち着いて話してみたりする。きちんとクレジットカードを持っていたユウがサトミちゃんに服を買った。これまた当たり障りのないブラウスとスカートだ。ヒラヒラ加減が幼さをいやがおうにもかきたてる。ぼくはユウの服の趣味を感じ取って奴を少し見損なう。さっきから妙に頼れる男と化しているユウ、それらがどんどんぼくの懸念を現実のものにしていくようであった。
「……で、どうすんだ? お前、こんな拾いもんしてさ。俺の家ならいくらでも場所はあるけどさ。その後どうすんだよ?」
「どうもこうもないさ。とりあえずサトミちゃんの気が済むまで置いてやればいい。純粋な人助けってやつだろ? ボランティアだって。そのための金ならぼくだって都合してもいいから」
「あの……ご迷惑、ですか?」
「ああ。迷惑だ。俺にとってはもうはた迷惑どころか直で迷惑」
 サトミちゃんは俯いた。元々は気の優しい子なのだろう。ユウは少し慌てた。
「ま、お前が家出娘を連れてきた、っていうことが一番迷惑なんだが」
「ぼくかよ!」
「冗談だ。たとい迷惑だったとして、この程度の迷惑を気にしたりするような俺じゃねぇよ。サトミちゃん、とやら。安心しろ、思春期の悩みを誰かに頼るのは悪いコトじゃない」
 それはそれとしてだ、と言いながらユウは煙草を灰皿に押しつけた。
「サトミちゃん、君はいったい何がしたいんだ?」
「それは……」
 ぼくの方を伺う。ぼくは頷き返す。
「それを、探そうと、思ってるんですけど」
 ユウはわしゃわしゃと自分の頭を掻いた。困り切った顔でぼくの方を伺う。サトミちゃんはしばらく俯いたあと、すがるような目でぼくを見た。……なんでお前らぼくの方を伺ってくるんですかね?
「とりあえず、だ……俺はまだ休みに入ってねぇんだよ。土日だから今日明日は問題ない、っちゃ問題ないが、なぁ? 俺らの生活に関する諸々のことははどうすんだ。この子の面倒見てる間、側を離れるわけにはいかねぇだろ」
 妙に責任感が強いユウだった。
「さっきからずいぶんと親切だけど。ユウってそんな趣味だったっけ」
「うるせ」
ユウの目の光は、どちらかというと純粋な善意にあふれていた。このバンカラ気質め。付き合いの長いぼくだったからちゃんとわかったけど。
「離れるわけにはいかない、ねぇ。むしろ離れたくないのかい? このロリコン野郎。見損なうぞ」
「ちょっと待て、オイ、俺は責任問題をだな」
「えー? 休みに入ってさえいればこの子と四六時中一緒にいるつもり、みたいなことを今言わなかったか?」
「あのー。私、乙女の危機ですか?」
「そうだねー。こんな奴だとはぼくまったく思ってなかったからねー」
「いやだから俺は別にそういうふうな意味で側にいようとか言ったんじゃなくて」
「じゃ、住む場所はユウんちの空き部屋で。ぼくが合い鍵持ってるから、渡しておくよ。どうせ彼女なんていやしないんだから迷惑なんてないだろ?」
「何もなかったように流すなよ!」
 サトミちゃんはくすくす笑った。ユウはせっぱ詰まっていた。ぼくはにやにやと笑って見せた。

「来てもらえばいいよ。それで……何かしたいこと探し、に目処が立つようにする、とか」
 サトミちゃんの目が驚きで見開かれる。
「えっと、あなたたちは、そういえば、何で今日会う約束をしてらっしゃったんですか?」
「あ、そっか、言ってなかったか。ぼくら、明日久々に会ってジャムるんだけれど。昔のバンドのメンバーでね」
「音楽やってらっしゃるんですか?!」
「はいはいはーい、やってらっしゃりますよ俺たちー!」
 自分をアピールするチャンス、とでも言わんばかりにしゃしゃり出るユウ。
「わたしもブラスバンド部に入ってて……パートはサックスでした」
「今はやめたのか……ま、色々あるからね、部って」
「学校は社会の縮図だかんな。人間関係とかうぜぇ! 転じて人間うぜぇ!」
「え、ええっと、パート分けはどんなふうなんですか?!」
 サトミちゃんは慌てて音楽に話を戻そうとしているようだった。たしかに、罵声を吐きまくるユウはちょっと見ていられない。
「コイツはドラムス、ぼくはギターだ。もうひとり来るはずなんだけれど」
「……モト? どうせどっかで女を引っかけるか女に引っかかるかしてるんじゃねぇの」
「救いようがないなぁ」
 苦笑する。ぼくらのバンドの優男なベーシストは女に対してアタックもガードも弱いのだ。
「学生だからって法的な義務を忘れるような奴ぁ駄目だ」
「何人妊娠させたっけあいつ」
「にんしん……」
 サトミちゃんは赤くなった。
「とりあえず許せん。俺はまだ彼女なんて以下略なのに」
「それは私怨じゃないのか?」
「法律なんて曲解するためにあるんだよ。だからアイツをとりあえずイリーガル!」
「さすが法律学科。いつかぼくを弁護したりしてくれるかな」
「お前を弁護するような立場に立つ前にお前を一発ぶん殴って踏みとどまらせてやんよ」
「なんか……いい友達なんですね」
 サトミちゃんが感想らしきものを漏らす。言葉面とは裏腹に、浮かべた笑い顔が引き攣っている。
「まぁ、まともなのはユウだけだけどね」
「自覚あるのな、お前」
「当然」
「えっと……えと、名前、訊いていいですか?」
「ぼく?」
「はい」
 そういえば、まだ名乗ってなかったか。
「河内。名前はマコト」
「マコトさん、は、どこか変なんですか? 私には普通の人に見えますけど」
「通りすがって女子学生を引っ掛けるような奴が普通だとは思わないけどな、俺は」
「これがぼくの自然体だけどね」
「そだな。鬱のときは酷いからな」
「鬱、ですか?」
「いや、仲間内では有名なんだ、マコトの凹みモード。「鬱るんです」って呼んでるんだけどさ」
「うん。ちょっと落ち込みやすいんだよ、ぼく」
「だ、大丈夫ですか? さっき私、結構鬱な感じでずっとしゃべってて……今の自分からしたら気が狂った人みたいだったんですけど」
 何が言いたいのか、なんとなく察す。
「ああ、それは大丈夫。ぼくは自分で考えすぎて沈むばっかりだから」
「うぃ。こいつ、別に自分の周りで何があろうが反応はごく普通の人間と同じよーなもんなんだ。違うのはさ、一人でずっと物思いに耽った後で鬱っぽくなるというか。雨降りみたいなもんで、必ず上がるから心配はないんだけどな」
 ユウは、少しだけ嘘をついてぼくに目配せした。ありがとう、とこちらも視線を送る。
「そうですか……」
 サトミちゃんはほ、っと息を吐き出した。
「そういうコトなら、行こか。スタジオへ」
「ああ。サトミちゃんも連れて行く、ってことでいいか?」
「いいんですか?!」
 さっきまで少し沈んでいた表情がぱっと明るくなった。ころころと年相応に表情が変わるのは、見ていて飽きない。
「もちろんだ。ここでほっぽり出すのも、後味悪いしな。乗りかかった船だ、どーんと行くぜ」
「乗せたのはぼくだけどね」
「うるせぇよ!」
 いちいち細かいこと気にしやがって……と呟くユウは伝票をむしり取ってレジに歩いていく。ぼくはサトミちゃんの手を取って恭しくエスコートのまねごとをしてみた。彼女は少しだけ赤くなった。

「そーいやさ、サトミちゃんの制服って、たしかミッション系のK学じゃなかったっけ?」
「ああ、ぼくもそう思ってた」
 とりあえずユウの家に向かう道、ハンドルを切りながら会話に混ざる。サトミちゃんは後部座席を独り占め、ユウは助手席に座ってナビをやってくれている。
「はい。正解です。ネームプレートはつけてこなかったんですけど」
「名字が書いてあるんだったっけ……中学生じゃあるまいし、って感じだな」
「でも、便利ですよ? 高校になってネームが無くなったら学年とか名前とかがとっさに出てこなくて、誰かと相対したときに困る、って言ってた友達がいましたし」
「それってよっぽど忘れっぽい奴じゃねぇの……サトミちゃん。名字は?」
「三枝です」
「三枝……で、サトミ。ちょっと待てよマコト」
「ん? 何?」
 雨で煙る道は集中して運転することを必要とする。ぼくはとりあえず相づちだけを打った。
「三枝サトミ……三枝聡美だろ! もしかしなくても三枝先生の娘さんじゃねぇか」
「……父の、教え子なんですか」
 途端、サトミちゃんの声が強張った。苛立ち、怒り、恐れ、憎しみ、それらのどれともつかない負の感情がこもる。その瞬間、周りの空気が冷たくなったように感じた。彼女は拳を握って胸の前に上げ、両手を重ね合わせた。その仕草はむしろ怯えているようだったそんなことはなかった。それはぼくの妄想だ。戻れ、戻れ、戻れ。

 ああ、そうだった。キリコは

 バックバックバック。

「父の教え子なんですか!」
 サトミちゃんは素直に驚いているようだった。同郷というだけでもかなり確率の低いめぐり合わせなのだが、ここまで偶然の一致が続けばもはや運命的な感じすらある。
天文学的な縁だ」
「たしかにね」
 ぼくは相槌を打ちつづけた。外は暗く家は遠く、運転には集中を要した。集中を要した。

「……なぁ」
「なんだよ」
 サトミちゃんは車の中で眠ってしまった。ユウは手持ち無沙汰になったのか、ぼくに向けてしゃべりだす。
「無防備なもんだよな」
「よっぽど信頼されてるんだろ、ユウはさ。ぼくは運転してるから手の出しようがないわけで」
「いや、そういうんじゃなくて……いや、そういう意味で言ったけどさ。なんつうか、お前さ、えーと」
 ユウは頭をわしわしと掻く。
「お前、まだ、キリコのこと引きずってるだろ? 思い出してたり、しないか?」
「あたりまえだろ馬鹿」
「どっちだよ、思い出したか出していないか」
「思い出してるよ。あいつの顔も声も仕草も匂いもほとんど覚えてる限り全部」
「やっぱな。K学ってのがキツイだろ」
「金沢から離れて、あげくつくばなんていう辺鄙で他人とかかわらずに済みそうなところを選んだのに。幻が追っかけてきやがったよ」
「キリコか……可愛かったけどな」
 ぼくはため息をついた。キリコはぼくが地元にいたとき好きだったひとだ。サトミちゃんは彼女と同じ学校だから、同じ制服を着ている。そして、今、サトミちゃんは眠っている。サトミちゃんという存在からぼくの注意が逸れている。たったそれだけで、ぼくはキリコのことを思い浮かべてしまっている。連想という単語を思い浮かべて、ぼくは吐き気をもよおし、それを必死で振り払う。
「やめてくれ。キリコは死んだ、ぼくは生きている。もう違う世界の住人だよ。そう割り切ってもいるし」
「なら、お前は別に金沢から逃げなくてもよかったし、俺たち旧友が多くいる東京を避ける必要もなかった。学力の問題で片田舎を選んだわけじゃねぇだろ? お前、結局進路指導のセンセどもから大分絞られたんだろが」
「校名を高めるために利用されるなんてまっぴらだよ。ただでさえプライドが高い田舎のお山の大将なんだから、一高は」
 旧制一高だったぼくの母校は、地方限定の不思議な権威をもっていた。
「……でも、進路は結局お前自身のことだろ? 自分の希望を通しておけばよかったんだ」
 確かに、昔は東京に行きたかった、けれど。
「上京する意味なんて本当はなかったんだ。ぼくは単に都会に憧れていただけだからさ。ユウみたいなでかい目標もなかった。子供だったよ」
「俺には今のお前だってあの頃と大して変わってないように見えるっつの。全然先に進めてねぇだろ? あの事故から」
 わかってることを何度も言われると腹が立つのは人間の真理だ。ぼくはそれ以降ユウの話を聞き流した。ただ、ユウが語る説教じみた話の、声色が寂しげなものだったことだけは妙に印象に残った。





つづけたい。