まぁとにかく、大学生とかいうものである立場を生かして明治大正くらいみたいにマルクスを持って銀ブラをすればモボになってしまえるだろうに今の知識人ていうか高等遊民というかニートどもは理想主義を履き違えて三次元である現実ではなく二次元である仮想にこそ美学を激しく見出してしまっている駄目っこばかり。手にするのは同人誌、徘徊するのは秋葉原か。とはいえfate/hollow ataraxia(スペルしらね)は素晴らしく、ぽるかみぜーりあとヲタクどもに語りかけるのである。あのメタフィクションっぷりは、http://www4.ocn.ne.jp/~temp/index.htmlにある評論に詳しい。自分としてはこれとエンターテインメントとしてのfateの成り立ち=両立の凄さに感嘆した。ただひとつ奈須きのこの言葉に突っ込ませてほしい。「可能性をすべて埋める」ことは不可能だ。あらゆる可能性があらゆる世界に偏在して言葉で語りつくせない次元にまで到達するゆえに、永劫の繰り返しはすなわち永劫の「違う」繰り返しになる。無限という概念には規模がある。例えば、有理数すべての集合は無限であるが、有理数無理数すべての集合も無限である。そして、前者と後者のどちらのほうが「大きな」無限であるか、ということは、実は比べうる。そして、奈須の考える無限の可能性は、奈須の考え出した世界がいかなる回転の仕方をするか、という無限の可能性よりも小さくなってしまう。それら重箱の隅をつついて同人作家は二次的創作物を作るものではないのだろうか? いや、こじつけだけれど。すべての可能性を埋める、というのは例えば奈須が作り出した物語、用意された箱庭をコンプリートする、というだけの意味しか持たない。fate主人公であるところの「彼」があの物語において「飽きた」と言うことは、奈須があの世界という箱庭でキャラを動かすのに「飽きた」ことであり、受け取り手としての「彼」が日常に対して「飽きる」ことはない。kagamiさんは「彼」をプレイヤーのモティーフとして捉えるが、同時に「彼」は奈須きのこを仮託された一人称でもあることを忘れてはならない。シナリオの展開につれて、「彼」はアンリであるエミヤである二元的存在であったと明かされる。しかし、既にエミヤシロウは二元的存在であったのだ。とにかく、受け取り手としての「彼」が日常に対し「飽き」ないことは、*1fate考察・同人誌が今回の刺激で加速度的に増殖することで証明されるだろう。それは失敗した「彼」が「怪物」になったように、触媒を得て限りなく増えていく、日常を終えた「彼」のように、醜悪で同属嫌悪を剥き出しにする怪物だ。つまりヲタクたちだ。ならば作者である奈須すら、いつしか成り果ててしまうのではないか――





 まぁそれはそれとして、kagamiさんはfate/hollowエロゲーヲタ批判の失敗したメタフィクションである、有と無の二元論に陥りその超克を成せなかった、というのだけれど、自分にはそう受け取れない。執拗なまでに主人公やヒロインにエロゲーマーの像を対比させながら、そのエロゲーマー=主人公は何度も繰り返す中で何度も「怪物」になる。kagamiさんはこれを見逃しているのではないか? 「怪物」たち、彼らの同属嫌悪の仕方や、彼らの成り立ち方に、ヲタク特有の自虐が含まれているように見える。凡百のメタフィクションに見えるのは、ヲタク=無だ! と主張すべく構成されたキャラクターの仮称するゲーマー・ヒロインの構造のせいだろうが、実は彼らは虚無を叫んでいるわけではない。それは、「彼」が四日目の終わりに怪物となり、残骸の山を作りながらも、常に「異状」として四日目までの「彼」をさいなみ続ける点にある。残りかすとなりながらも虚無には消えない、ということ。それはつまりエロゲーの虚無は概念的な虚無として「有る」という実存的な言葉を正しくなぞる現象として読み取れるのではなかろうか?




 奈須は同人から商業へ*2転換している。ゆえに彼らを嫌悪せず、ヲタク=無だ! と言い切らずに繰り返しの最後の日に主人公を食い殺し取り込む悪夢のような集合体という「存在」に当てはめてしまったようにも思える。自分は、奈須きのこの意図自体は神学的虚無とエロゲーの実存的虚無を重ね合わせることだった、と思うし、その意味でkagamiさんは奈須の意図を極めて正確に掴んだと思うのだが、その結果現れた奈須の「意図しなかった情況」について言及したいと考えるものである。



 キャラクターのそれぞれが仮称するゲーマー、ゲーム内のヒロインたちの関係に加え、実は堕ちた主人公である存在たちが「自分たちは無ではない、空虚ではない」と叫び、まだ堕ちていない主人公を堕落させようとする構造がシナリオ・システム共にゲームの根幹を成しているのは明白だ。ゆえに、これらにおいて同属嫌悪しつつヲタク達の存在がヲタクである自分を安んずる、という*3新時代ヲタクにありがちな現象が、仮託された状態で立ち現れるように私は感じた。エロゲーマーたちは虚構の繰り返しの中を「飽きる」まで回転し続けるが、一周するたびに一人、「怪物」が増えていく。これはつまり、エロゲー体験が虚構ではあるが虚無ではありえない、という証明を成り立たせる背理法的な反証になりうるだろう。何せ、「怪物」は確かに「存在」するのだから。

 これこそが神学的虚無ではなく、形式的に虚無を歌いながらも実はエロゲーは虚無ではなく有であることを本質的に直感しているヲタクたちの*4心理に極めて近く、fate/hollowがヲタクたちの嫌悪感を引き出しつつも惹きつけてやまない理由になるのではないだろうか。

 確かに、宗教学的には奈須的解釈は間違っている。しかし、エンターテインメントを成り立たせるための材料として意図的な改変を行った、という考え方の方がfateにおいて、ひいては奈須の世界観において妥当であろう。アンリマユにキャラ萌え的性質を付け加えるための道具的誤用だったとすればスムーズにfateの解釈は納得がいく。そしてhollowにおいて有と無の二元的対立とメタフィクションを作ろうとしたが、すべて綺麗にまとめられず、混沌とした怪物たちの存在を明らかにしてしまった。ゆえに、ラストシーンで「現実」に還るとき、その怪物たちは残らず殺しつくされる。それの存在意義についての説明もなされず、ただすべて殺しつくされるべき存在に純化させられ、プレイヤーのカタルシスを煽るだけのキャラクターへと成り下がる。

 私は「怪物」たちがいったい何だったのかを問いかけることによってfateの到達点がさらに違ってきたように思う。それは、奈須の二元論のメッキではぬぐいようもなくこびり付いたヲタクの本質を、曝け出すためのとっかかりとなるのではないだろうか。いえい、いったいべらべらと何書いたんだ自分よぅ。

*1:今の俺もその一部。

*2:あと自認するヲタクだ。

*3:ポップカルチャーとしてヲタクを捕らえ始め、文化としては好むがヲタクの存在そのものを嫌うもの。サブカルとの繋がりも大きいかと思う(勝手な俺の思い込み用語なのですけれど!)

*4:自虐を加えながらも自尊心を常に持ち続けたり!