劣等感と優越感の入り交じった感じあるいは自己嫌悪という形で出てくるナルシズム。少なくとも自分は他人とコミュニケーションが断絶する瞬間にそれをいつも見ている。だから、頻繁に「ああ、もうだめだわ」と思えば思うほど自意識が過剰になっていってもてあまし気味になる。それ、あんましよくないよね……どう考えても某中島敦の小説で虎になっちゃったあの人のルートだよね……くわしくはmixiでどうぞ。同じ文を二回書くのめんどい。


 ふと考えたんですけどね。多分に文系に偏って書いてますがね。その辺突っ込み待ちですがね。ファック。みー。

 どう考えても知識人層ではない人間が知識人的な知見を抱けるようになった昨今のネットだの何だののメディアの強化を考えれば、「知」なんてどんどん安くなっていくんではないかなっていう凄い短絡的なことをね、思いましたよ。
 「知」ってのは過去に置いてそれ自体の学問的・知的価値に加え、「美」的なものだったと思うのです。薄暗い書斎、旧字体、万年筆、原稿用紙。あるいは数式、白衣、実験用具。おびただしい外書。それをノートに手で書き写す労力。そうしたものをすべて行ってきた人間こそ、その努力をたたえ、能力を認め、社会において知識人として現出できたのでしょう。そこにはある意味では「学者」というものに対するステータスが付加されてしまいます。「手段としての知」ではなく「目的としての知」。ここでいう目的というのは「到達すべき地平」ではなく、審美的な意味で価値を認める、的な意味でとってくださいな。

 今やそうした努力はなく、パソコンで文は打てる、読める、情報は集まる、あげく新字体で専門書は出る、等々。理系の方面はまだまだ変わらず同じように知に対して高い価値を認められたとして、文系の「知」は近代まで維持し続けてきたお高そうなイメージを保ち続けられるかどうかはなはだ疑問です。ていうか、そういうことを一介の学生であるところの自分に思わせしめるところがもうダメ。学は学生にとってもっと崇高な目的として感じられるものだったりしたころはなかったもんか? いや昔からこんなもんか? でも伊達と酔狂がやっぱりステータスだった時代もあったでしょうに?

 活版印刷が本の普及につながり、「文字を扱う」という限られた知の領域をより多くの人間に解放したことになぞらえるなら、ネットはさらに学の領域を開放していくのかもしれません。検索だけで専門的な研究なしに全てのこれまでの蓄積された学問に匹敵する何かを得られる、と無批判に言うつもりはありませんが、それでも「知」の敷居や「知」の難解さは確実に低くなり、それゆえに、到達困難な峰としての「知」の価値は暴落の一途をたどっているように思われるのです。

 ぶっちゃけ三流大学の学生ですらこんなこと思いつくご時世に、学に至上の価値を見いだせるヤツってどれくらいいるんかね? 最高学府の専門バカな子たちしかいないんじゃね? 逆に言えば、そのようにして学の美的実存を存続せしめるような人材こそが、教授になって、象牙の塔の拡大生産を行うから、哲学が腐ってしまうのでしょうかね。いやまだ腐りきってるかどうかさえ俺は知りませんが、少なくとも、輝いてはいないよね哲学。

 もう「知」はどんどん安く売って、誰もが実りある「学」に参加できるようにしたほうがいいんじゃねーかなぁ……敷居もっと下げて、一般教養のレベルを糞高いところまで上げればいいのに……
 そういう高度に「知」にあふれた社会って、楽しそうだよ、俺にとっては。ちなみに「知」は「哲学」「社会科学」に読み替えると吉。外。