ネットすげー。だって、網の目みたいにつながるんだぜ? 一対一とか多対多とか、今までの接触方法を全部塗り替えたんだぜ?
 ネットワークっていう、今の世界を象徴している言葉は、異常な程流行してしまっているような気がしたりしなかったりする俺である。情報がネットワーク化したところで今度は権力がネットワーク化したり物流がネットワーク化したり、一切合切がネットワークである。もう何を言ってもネットワークである。最近じゃ小学生女子において流れる噂話なんかもネットワークにすりよせて考えたりするんだっけ? 何でもありだよコンチキショー。そういや昔ネットサーフしてたときにグロ画像を見せられたことがあったっけ。ゲイ男がバックに入れてバックに入れられてそのまま円になってるやつ。あれを今風にアレンジすればネットワーク的に相互でつながったりする図になるんだろか? あー気持ち悪い、ネット気持ち悪い。

 まあそれはどうでもいいとして。

 今の世の中、仮想体験できる事柄が多すぎるっていうか、虚構が豊富すぎて実体験に虚構が先立ってしまいがちな点があります。
 メディアは経験を媒介します。文字で、音で、画像で。つまり新聞ラジオテレビ。そしてさらにインターネットにおいて文字が不滅になりかつ音・画像を取り入れ、インタラクティブな動作さえやってのけるようになったとき、媒介できない経験はもう味覚や嗅覚といった某アリストテレスさんは低次のほうに置いた(うろ覚え)感覚しか残っちゃいやしません。
 観念を作るうえで大切なものであるところの経験は、今やすべて他人越しです。紙やら電波やらモニタやらディスプレイやら、何かを通して伝わってくるものばかり。もちろんそのとき通ったフィルタにバイアスがかかっていないわけはなく、歪められた経験を通して俺は観念をつくってきたのでした。たったたた。

 ひとりのこどもがいたとします。今日は動物園にはじめて行く日。彼はゾウをみるのを楽しみにしてます。おっきくてはながながい。どれだけおっきいかはじめて知って感動します。でも、彼はきっとこういうのです、「すごーい、テレビで見たとおりだよ」と。
現実の経験は、もはや虚構に合わせた形で僕等に認識されるほかなくなりつつあります。高校の現代国語やってりゃ誰だってそうゆう文章読んでると思います。でもそれが実は結構凄まじいことだ、って理解したことあるかいな? いやねーだろ(反語)

 虚構は、ある程度の現実性を含んでるとはいえ、結局は観念の産物だってことにしときます。現実が何か、ということについてはものすごく素朴な古代ギリシア的な存在論に頼ってここでは自分で説明しません。すんません。まぁとにかく。虚構づくめの俺らは、観念に経験を飲み込まれていきつつあるのです。プラトン風に言えばイデアに経験が包含されてる、みたいな?

 んでもって、恐るべきは色々繋がってるネット。ハイパーテキストに流れる観念群はどう考えてもイデアです、本当にありがとうございました。ネットワークでグローバルかつユビキタスにつながっていく網状の観念群になんだかグロテスクなものを覚えるのは俺だけですか? そうじゃないことを祈りたいもんじゃい。そこにものがあることは、わたしと別になにかがあることですか? そこにものがあると認識することは、わたしの心の中の認識ですか? ネットワークに接続されて通信を繰り返しているぼくらは、実はとっくに誰かの観念群を受け容れてしまっているもんでしょ。わたしなんていないし彼なんていない、そしてそれをつくるのはにっくき通信その他の技術なんですな。
 んー、便利になったのはいいけど技術に囚われて今度は俺が悩ましいことになってしまうのですよー。

 あとなんてったって技術って、テオーリアしにくいんすよ。きほん哲学の方法として、自分を対象から離れた場所においてテオーリアすることが大切らしいんですが、技術ってそれ自体で俺のものの考え方を変えちゃうんですよ。便利な方に行くから、なかなかあらがえないんですよ。ケータイ前とケータイ後のコミュニケーションの形態は確かに変わったっしょ? こんとき、コミュニケーションっていう概念自体が思いっきり変わったし、コミュニケーションにまつわる人の考え方も変わったんですよ。昔なら連絡がなかなかつかない奴だっていたし、常連だっていたし。人間関係はどうしても物理的な距離によって制限されるから共同体的な意識がなきにしもあらずだったわけですよ。日本なんかで父権社会が権威なくしてもある程度そのままあり続けたよね? それはたとえば家電話で連絡を取る限り、常に「家の一員」っていう実感がわいていたことと関係あるかもしれない。そんな細々と生きて息絶えそうな家は、ケータイで一家離散していつでも連絡ができるようになった時点で概念のアイデンティティクライシスに陥るわけですwwwあげく、連絡が容易になりすぎたせいで遠距離・近距離の感覚が崩れ、たとえば隣の席に座ってる奴にメールをしたり電話をしたりすらするようになるのです。でもこれも全部「コミュニケーション」の一語の中にくくってしまえるように、ケータイという機器が「コミュニケーション」という言葉の意味自体を変え、その結果俺らが暮らす世界の意味すら変えていく。こんな流れがあるからめんどくさいんだ。

 とりあえずイデアのネットワークに接続していやらしいものを集めてきます。ところで、その欲望って本当に俺のもの? それとも他の誰かのもの?