それは、toe(バンドの方ね)の項目を最初に編集したのが俺だってことだ!!!
 で、しばらくほっといたらちゃんとはてな市民の人がRGBDVDやらNew sentimentally EPやらについてきちんと書いてくれていた。しかも今まである形式にわりと従って。なんだか人のつながりを感じてほろりときた。
 電子機器が人のつながりを感じさせてくれるなんて世も末ですね、あるいは世も始まりですね。世紀末はとっくに終わってますけど、世紀末に俺が夢見た未来はいまここにはないのでした。そう考えると、今って中途半端な移行期間みたいですね。現代はまるで「仮」のもの、臨時のものに思えてしまいます。それは単に俺が今モラトリアムの只中にあるというだけで説明がつくのでしょうか? 懐かしい気もせず、未来であるような気もしない。まぁそれがいまここってことか。味気ねーな。

 こういう発想と、今日買ってしまった本(榎本ナリコセンチメントの季節5〜8、スカート、リボン、こころ、アレゴリア)の感想を足すと以下のような感慨が。

 少年時代・少女時代というのは、もう戻れないその頃を思い出すとき、懐かしく思うものだという榎本ナリコ氏の考えに、実は自分はものすごく共鳴してます。
 もう取り戻せない時代、肉体的にも若い時代。そういうものを年取った人間の側から思い返すとき、少年・少女という幻想が産まれるということ。
 そして、当の少年・少女の側から考えれば、社会的にはまだ半人前としか見られない自分たちの未熟なアイデンティティを、大人たちが抱く勝手なセンチメンタリズムを利用して「少年・少女である自分」をかたちづくるシステムがある。こうして幻想は共有されていく、ということ。
 こういう考え方が自分はすごく好きなのです。だから榎本ファンなわけです。

 少年・少女の眩しさは、少年少女たちと、もう少年少女ではなくなってしまったオジサンオバサンたちが共同でつくっているのです。
 ところで、大学生〜社会人なりたて、くらいの人間たちは少年少女でもなければオジサンオバサンにもなりきれないままです。
 もう取り戻せないはずの若い時代となだらかにつながっている、そうした若者たちの「今」は、それでも少年・少女が享受したものとは違うはずです。なのに、少年・少女だった時代を懐かしく思い出すにはまだその時代から離れきっていないのです。しかも、オジサンオバサンたちはそうした若者たちをできるだけ「一人前」として扱おうとしていきます。社会に生きる自分たちと同じような価値観へと引き揚げていこうとします。

 このとき、若者は境界の上で、自分は少年なのか大人なのかを考えなくてはなりません。時間は流れるもので、元には戻りませんから、当然大人にならなければならないのは確かです。ただ、実感として大人になるにはあまりにも少年・少女時代が近すぎるのです。
 マージナル・マンたちは、少年・少女時代の終わりを卒業式で味わったとき以上に、苦く・辛い思いをしつつ、大人に近づいていかなければならないのだと思います。
 とりたてて懐かしく思うほどの幻想もなく・かといって現実の社会で地位を得ているわけでもない。このような高等教育のモラトリアムは、大学生であるところの俺に、まるで上述した「現代」のような「かりそめ」感を与えてくれるのでした。

 ともあれ、味気のない「いまここ」にいる自分にしか味わえない、この中途半端さをもちょっと大事にしていくのもありかな、なんて考えてみたりしているのが今の俺なのでありました。
 よくわからないままおわる。