(無推敲ver.)

 我々の日常世界における認識の図式はデカルト以来「主・客」の二元論によって規定されてきた。このことは多少なりとも思想に通じた人なら耳にタコができて足も八本生えてその足によって耳を思い切りふさぎたくなるほど何度も何度も繰り返し言われ続け聞き飽きてきたような言説である。
 ことさら日本において「客観」という言葉は大いに一人歩きしている感がある。というのは、西欧の言語においては"object"すなわち「対象」としての意味も併せ持つ概念であるはずの「客観」という言葉に、なぜか「正しいもの」という意味合いが付与されているからだ。もちろん西欧において「客観」こそが真とする立場は存在する。唯物論に代表される世界観がそれである。ただし、この唯物論的世界観が絶対とされ唯一の潮流となることはついになく、ヒュームやバークリのように主観から出発し*1不可知論にたどりつく世界観もあった。しかし、日本においては「客観」は世界観との兼ね合いを考えるよりも事柄として先行して「正しい」という意味合いが見て取れる。
 教育の現場において繰り返される言説に「主観的なものの見方を脱する」「客観的に考える」というものがある。ここにおいて内包されていることは、つまり「主観=あいまい、独断、誤り」であり、「客観=確実、明証、真」である。この言説一つをとって日本における主・客の用語法全体の揚げ足を取るつもりはないが、とかく日本での日常的な理解における「主・客」は西欧におけるそれとあまりにも差がありすぎる。そこで、ひとつだけごく私的な直観による仮説をたててみた。

 日本に哲学が流入してきたのは明治期である。このことも思想について多少知っている人ならば既知のことである。今まで私があまりにも生産的な思索をせず、哲学の入門書の最初に書いてある初歩の初歩としか思えないような事柄のみをまわりくどい文体でもって取り扱うだけなので、そろそろ腹を立てている方もいらっしゃるかと思うが、もうしばらく辛抱をして読み進めてほしい。哲学が哲学たるには厳密な手続きを踏む必要性があり、その厳密な手続きというのは回りくどさがつきまとう類のものであるからだ。とはいえ私自身、回りくどさを追加することにより現れる文章における見た目の気持ち悪さを見て陰気な悦びに浸っていることは否定しきれないのであるが。ともあれ、内村鑑三が「武士道精神の上に接ぎ木されたキリスト教」の信仰を得るのと同じく、我々日本人はそれまでの儒教、また儒教化した仏教、真名文化と仮名文化などの上に接ぎ木する形で哲学的語彙も獲得してきたと言えよう。現代においても、日常世界において従来の語彙の影響力は強く、哲学を輸入した際に多くの語彙は意味がゆがめられ、あるいは翻訳しきれずに伝わってきた。哲学、主観、客観などの新語が造られたとはいえ、これらの語彙の意味合いは日本語における類似の語に引っ張られ、本来の原語の意味合いを変えてしまうのである。
 主観・客観という言葉に対し類似した意味合いを持つ言葉として、我々は私・公という概念を既に持っていた。
 私と公は字において共通する部分を持つ。「ム」である。この部位は中国における漢字では「囲い込む」という意味を持っていた。
 すなわち、「私」という字において表現されている事柄は、のぎへん(穀物)の囲い込み、すなわち私有が表現されている。また、「公」という字にいては囲いこみを「開く」という意味が込められている。私有していたものを開き、共同体へと開かれる。公という漢字それ自体にこのような意味があるのだ。以上の成立過程を経て、「私」「公」は中国の「孝」概念を原理とする儒教的社会において、対立しつつ領域を分有して共存する関係を持つようになった。その意味を詳しく見ていこう。
「私」には「?わたし(一人称)、自分、個人的なこと、悪い、よくない、不公平、片手落ち、秘密、男女間のかくしごと ?私する、自分のものにする、自分の利をはかる、不公平なことをする、悪事をする」という意味が含まれる。
「公」には「おおやけ、正しくて偏っていない、公平、表向き、朝廷、政府、役所、社会、公衆、公務、公共、天子、主君、諸侯」という意味が含まれる。(「小学館 新選漢和辞典」の記述による)
 さて、これらの区分を見て何か気づくことはないだろうか? 現代日本の生活世界において我々が主・客において抱くイメージは「私・公」の漢字において現れる意味と酷似しているようには思われないだろうか。ここにおいて私は一つの仮説を立てる。すなわち、「主観・客観という語は、日本において既存であった私・公という語に接ぎ木された概念として日常世界に存在している」と。
 そして現代日本の思想状況を読み取る一つの切り口として、「正・誤という観念にとりつかれた主観・客観」というテーゼは役に立つものではないか、と思う。
 西欧の思想を接ぎ木したことにより、日本の家制度は解体されつつある。このこともうるさく言われていることなので、多く説明はしないでおく。「個」的存在として極限まで分解された我々は、私・公の対立関係において、大いに抑圧されうる状況にある。一つは純粋な力の関係、権力の関係性としてである。私人はどうしても私人を包含しつつ抑圧していくものであるところの社会・共同体・政体=すなわち公より劣った力しか持つことができない。数の問題である。この構図を前提として西欧における民衆の権力獲得の長い歴史があったと捉えることもできるだろう。
 もう一つは思想的な問題である。社会・共同体・政体=すなわち公が「正しい」という観念が前提されており、私人すなわち「主観」と接ぎ木されている一人称の私は、軽んじられる傾向にある。社会全体にこれらの通念は蔓延していて、私人は誤りがちであり公の空間こそが真である、というように常にチェックされているような状況である。ここにおいて絶対的に「正」である空間を仮に「空気」とでも読んでみればどうだろうか。具体的な顕現を見せないが、常に一人称の私は誤りであり得、それ以外の共同体的なものがあらゆる場を支配する日本に意外なほどフィットしてしまうのではないだろうか?
 このようにして、事実的力関係においても観念的力関係においても抑圧され続ける「私」は、しかし、強く強く押された風船が固く固くその空気の密度を増し、押していく手をまた押し返していくのと同じように、「主観」の保障を叫び出す。*2文化相対主義的雰囲気、論争に対するアパシーモラルハザードとしてよく言われるところの自己中心的な振る舞いなどは、抑圧された「私」の意志や意欲が、暴力的に規制されないであろう部分において露出したものであるという側面もあるだろう。また、「私」は譲れない一線を権利においても置くようになる。「公」に浸食されるべきではない部分として「プライバシー」など権利も現れてきているが、逆にすべて管理しようとする動きも確かにあるのだ。これらは単純に「私・公」と「主・客」の問題から論じるわけにはいかないものであるが、「私・公」と「主・客」の日本的歪みを前提しつつ考察すればまた新たな問題を解きほぐす結び目が慧眼な人々において見いだされることもあるかもしれない。
 デカルトが"cogito, ergo sum"と説いたときから主・客の世界観は文字通り世界を犯していったわけであるが、我々日本において主客二元論はまた異なった問題の地平を開いている。このことは間違いない。

*1:Kantの物自体概念も主観から出発し不可知論にたどりついた例と言えないことはない

*2:客観の強さを認識しているため、自分の主観的立場を護るために再帰的に自己へ引きこもる構造が前提された文化相対主義・論争アパシーが日本において顕著だと私は考えた