自分の痛さが再認識できました。どうも、就活と卒論に追われる羽目になりましたnyaroです。
 ちょうど一年前くらいに「産む機械」について我ながらぐっだぐだな文章を書き殴ったら色々な方々の目に触れて生き恥晒したことを思い出しました。未だに「産む機械」で検索してここに来てしまう方が多いのもきっとそのせいでしょう。というかどんな記事もなぜか「産む機械」と「喘ぎ顔」っていう検索ワードがリンク元に入ってるあたり、ネットの海の業を思い起こさせますな。前者はいつまでも消えないテキストで時事問題を論じることの危うさを。後者は性的衝動の普遍性を。まぁ実にどーでもいい話ですけどねん。

 そうやって久しぶりに色々と自分の記事を読んでみると、見逃していたコメント群に出会いました。実は業者に汚染されていた某「産む機械」のエントリやら、なぜかエロいトラックバックがついてる前回の記事やら。複雑な気分です。

 そのなかに
<あんまり思想云々とか言う話でも無いような。全体的にこのブログ、なんでもかんでも無理に難しい話にしようとしている気もしますが。
 っていう匿名のコメントがありました。(http://d.hatena.ne.jp/nyaro/20070201/1170265493#c

 もちろんこのブログは無理して難しくしてるさ。
 なんつっても俺が学を衒って楽しむためのところなんですから――!!

 と過剰に反応して、この人を攻撃しちゃう自分を一瞬思い浮かべました。
 簡単に言えば痛いとこ突かれて激昂したんですね。ダメだな想定上の俺。実際の俺はどうかというと、とりあえずこのブログの意義を完全に否定してくれやがったこの名無しさんに感謝しておこうかなとも思うわけです。

 いつのまにか自分は哲学科に呑まれてしまい、現象界の裏側に叡知界があると考えるように、現実世界で起こっていることの原因として思想を常に考えるようになってしまっていたようです。この見方は、「わるくはない」けれども、それだけに偏ってしまっちゃいけねぇ、と昔の自分がずっと思っていたところのものです。
 なんつっても俺はここで書いてることは大体カントさん的に言えば「居ながらにして知った」ことばかりであって、実際に経験から書いてることなんてほとんどないわけです。言うなればフィクションです。テキストを通して知ったらしい「事実」に似た何かを無理矢理解釈してるだけです。んでもって。これらのことを常に意識せよ、と自分に言い聞かせるためにブログを書いてきたようなものだったりします。
 哲学やら文献学やら史学やらが俺の専攻分野にあたるわけで、もちろんテキストを通してしか学問はありない分野であるわけですが、自分は一筋の「うさんくささ」を常に感じながらやってきました。あるいは、「うさんくささ」を感じなければならない、と思うようになってきました。それはともすれば理論だけで完結したがる自分の性格を自粛させるためでしたし、また哲学が厳密な学であるために必要なことだ、と大学の課程から学んだことでもありました。
 だからこの匿名の、しかも結構適当に発されたであろうコメントは、ものすごく自分の核心を言い当てていました。
 「産む機械」騒動の裏側に思想的なものがあったんじゃないか。自分は、この直観を撤回する気はありません。
 なにか行動を起こすときには、
?目的の設定?計画?実行?反省?改善
 のプロセスを踏むことが常識に近くなっていますけれど、?の過程で目的を決めるファクターとして主体の世界観やら価値意識やらはどうしても問題になってきますからね。現実について考えることは、われわれが現実に対して持っている先入観のフィルターを通すことでもあるわけです。
 要するに思想なんです。思想の出元はメディアやら他人の思想やら「空気」としか言いようがないものやら色々ありそうですが。
 今後も日本国民の行動・マスコミが報道し騒ぎ立てる事件、その背後に日本人の思想や世界観・価値観が前提されているであろうとする自分の思想的立場を崩す気はありません。
 ただし、純粋に思弁的な事柄だけを取り扱ってるとバカになるのは確かだと思います。ので、とりあえず反省しよう俺。
 そんなことを思った、見込みのないバレンタインデー10日前。