どこにでもあるような「家族」

 まず*1ハナレグミの名曲を聴いて欲しい。それから本文を読み進めて欲しい。

 
 良い曲だったよね? さて、僕らはいわゆる「家制度」が崩壊した後の時代に生きているらしい。
 *2サザエさんのように三世帯が同居している家なんて今頃珍しくなってしまっただろう。息子を叱る時に自分の部屋に呼びつけ・正座させるなんてことをするような父親は消え、トモダチのような触れ合い方を家族に求めてくるようになった。家に居て家事を引き受け、姑と様々な論争をしていたような母親は消え、会社勤めやパート・趣味に忙殺されるようになった。襖で仕切られた部屋が当然だと思う子どもは消え、部屋は洋式のドアが付き、鍵がかかるようになった。都会的傾向が善い、あるいは旧態依然とした家が善い、という価値判断はいったん置いておこう。失われたものを惜しもうが現状を肯定しようが、何か生産的な論は生まれてこない。家族は変わった。確からしいことはそれだけだ。ここから話を始めなければならない。

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス
どこにでもあるような 家族の風景
7時にはかえっておいでと フライパンマザー
どこにでもあるような 家族の風景

 ハナレグミの歌う「家族の風景」という曲は、殆どが上記の歌詞の繰り返しで進む。リフレインによって強く印象づけられるはずの主題は、しかし優しい歌声と劇的に動くわけではないメロディーによってやわらげられ、耳に心地よい。まるで、「家族の風景」が居心地良いものであるかのような錯覚をリスナーに引き起こしてしまう。「家族の風景」が無条件で居心地の良い場所であるはずはない。家族は確かに居心地の良いものでありうる。しかし、血縁、父母祖父母子孫という枠組みによって規定された関係は、定型文のように融通がきかず、時に痛みをもたらす。また、血の繋がり以外において接点を持つわけではない・独立した個人たちの(緒論あるかもしれないが現代の文脈においては「個人」は最小の単位であり、否定できない)共同体であるから、家族とは社会の最小単位であり・軋轢の最小単位でもあるはずだ。しかしながらこの曲においては諸々の家族の煩わしさは捨象され、何か懐かしい音像が郷愁をかき立て、「心地よい家族の風景」が錯覚されてくる。もちろんこれらの効果をねらって作曲・アレンジができなければプロではない。ハナレグミは巧妙に僕たちの感動を引き起こしているわけである。*3ブラシを使ったドラムス、郷愁を誘うモノフォニックな音作りの*4キーボード、和音にsus4やadd9を使った中途半端で*5ジャジィなギターの響き。全体的に音数を少なくまとめ、落ち着いた音の空間の中に以上のような要素を配置していく。こうしたアレンジすら全て計算され・理想化された「家族の風景」を表現する手段として*6割り切って使われていると考えられる。
 さて、「郷愁」というフィルターによって理想化を施すには一つの*7コツがある。それは、「今は失ったもの」あるいは「今はもっていないもの」をこうした理想化の対象にする、ということだ。
 「どこにでもあるような 家族の風景」とは、誰もが心に抱いていながら・現実には存在しない、理想の風景だ。しかもハナレグミはそれを自覚してこの歌を歌っているようである。

友達のようでいて 他人のように遠い
愛しい距離が いつもここにはあるよ

何を見つめてきて 何と別れたんだろう
語ることもなく そっと笑うんだよ

 リフレインの合間をおだやかに引き裂いて挿入されるもう一つの旋律は、二つの視点を持っている。
 一つは、「家族の風景」に所属し、そこで感じている一人称の視点だ。「愛しい距離が いつもここにはあるよ」と家族の中で実感し、「語ることもなく そっと笑う」家族の誰か、あるいは自分をこれもまた家族の中で感覚している。
 もう一つは、「家族の風景」というものを冷静に観察せざるを得ない三人称の視点だ。「友達のようでいて 他人のように遠い 愛しい距離」などというものは現実にあり得るのだろうか? 「何を見つめてきて 何と別れたんだろう」と自問する永積タカシには、こう答えたくなる。「あなたは『家族』というものと別れてしまったんですよ」と。もちろん、彼自身が今私によって提示されたような答えを知っている。これは誘導尋問だ。「僕たちは家族と別れてしまった。こんなに居心地の良いはずの家族の風景を手放してしまった。失ってしまった」と、このようにリスナーに思わせる・言わせるための誘導尋問なのだ。
 この詩のすばらしさは、以上のような二つの視点による解釈が「とても自然」に出来る点である。ごく普通に言葉面だけをなぞっても十分に美しくやさしいのに、さらに構造として人称をぼかすことで時間・空間的に*8分裂した認識主体を表現することに成功しているのだ。

 ところで、石川県の詩人である室生犀星は以下のような詩を書き、多くの人の共感を呼んだことは有名だ。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

(小景異情 その二)

 ここで表現されている「ふるさと」とは、懐かしい郷愁を誘う「ふるさと」であり、自分にとっての理想の居場所であるところの「ふるさと」である。しかし、こうして想起することのできる「ふるさと」というのは、実は内的なものであり、現実に存在するものではない。
 犀星の理想主義的な美的感覚は彼の他の詩にもうかがえる。

逢いたきひとのあれども
逢いたき人は四十路すぎ
わがそのかみ知るひとはみな四十路すぎ
四十路すぎては何のをとめぞ
をとめの日のありしさえ
さだかにあはれ
信じがたきに

(四十路)

 たとえば*9坂口安吾堕落論のあの有名な冒頭で述べたように、人間は変わるものだ。美しいものが存在し、ひとのこころをどうしようもなくかき立てるのは事実であり、それが永遠に続くことを人は祈る。しかしそれはかなわない。日本人の奥底にはこうした「無常」を悟る感覚があるのではないか。だからたとえば、安吾は美しいうちに自分の姪が21歳で自殺したことに「ほっと」する。犀星は四十路になってしまっただろう記憶の中の処女たちを、ひたすら人目も顧みず嘆く。藤村操が華厳の滝から投身自殺し、その姿が人々の心を打ったのも、煩悶する若者の美しさがそのままに留められたことにあったのだろう。朝には紅顔ありて、夕には白骨となる。虎は死して皮を留め、人は死して名を留める。美人薄命。薔薇は散るからこそ美しい。美しいものの儚さと永遠性へのあこがれを示す表現がいくらでも出てくる我々の思想を甘く見てはいけない。
 そうすると、有限者であるところの人間が、永遠性を手に入れるにはどうすればいいのか。逆説的だが、死によってその瞬間の自分を永遠の相のもとに留めるという方法しか残されていないはずである。これこそが、無常観に侵された日本人の心の本質を表すものである。
 さて犀星は「ふるさと」さえも永遠の相に置こうとする。「ふるさと」は人ではなく場所である。人よりも場所の変動は顕著である。人が移り住み、建物が建ち、崩される。道ができ、または失われる。しかしながら、どれだけ変わったとしても「ふるさと」である、という実感だけが彼の心には残っていたのだろう。そして、自分が懐かしく思うはずの「金沢」は既に現実にあり得ないものであるのに・「金沢」と呼ばれるところの街は現実に存在している、というギャップが彼の心を激しくかき乱したのだろう。そうでなければ、ここまで凄絶に美しく、どこまでも純粋に、永遠をめざす詩は生まれなかっただろう。彼がラディカルに「うらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」と語る動機は、現実に存在するところの「ふるさと」を可能な限り捨象して理想の「ふるさと」を思い「涙ぐむ」ため、つまり美しいものを美しいままで留めようとする妄執にも近いほどの願いなのだ。
 
 さて、「家族」は「ふるさと」と同じく、物理的な意味において「場所」であり、さらに人間どうしの「関係」でもある。それが失われてしまった。それを永遠の相のもとに理想化しようというのが「家族の風景」の企みだった。これらの効果は、現代においてあまりにも大きいものとなるだろう。ポストモダンの雰囲気と日本人の無常観は妙に合致し、高度経済成長期において、学園紛争の雰囲気(あくまで雰囲気)と相まってそれまでの「家」制度を壊し尽くしてしまった。彼らは絶対的に見えた「家」すら壊せることを示した。その結果の善悪は問わないこととしよう。犯罪率やらなにやらを取り扱うには、この文章は美しいものを扱いすぎて、贅肉がつきすぎているから。ともあれ、「人」・「場所」・「関係」の三つが合致したものである「家族」において、それが失われたことを示し、郷愁を伴う理想化を施すこと。これらが執拗に絡み合うことで、我々はこの曲から強烈な感動を得ることができるのだ。ここには確かに思想が息づいている。ふだん顧みられることのない、けれども奥底で息づいている、哲学・思想の領域で扱うところのものが存在している。我々は今も昔も形而上学的に生きているらしい。永遠はあるよ、ここにあるよ。そう保証してもらいたいのだ。

 *10結局何が言いたかったかというと、ハナレグミ最高。これにつきる。

*1:SUPER BUTTER DOG永積タカシによるソロユニット。弾き語りがメインで活動。永積タカシと俺の「顔が似ている」と一部仲間内で話題になったことあり

*2:現代において「サザエさん」というアニメを見ることはきわめて興味深い現象になりつつあると思う。子どもたちはあの話が「少し前の日本の家」の話だ、と認識しながら見ているのだろうか、それとも完全にフィクションとして見ているのだろうか……? 自分には後者であるように思えてならない

*3:スティックの一種。ああいう音になる

*4:アナログシンセか何かだと思う。ムーグ?

*5:maj7なども頻出コード。和音による効果については自分の知識不足のため説明を控えている。

*6:それ いいすぎ

*7:「現にあるものが理想だ」なんて言ったらいくらでも反証ができてしまう。だから、存在しないものを理想化する。当たり前だよね。そうでなきゃヘーゲル法哲学」はあそこまで叩かれなかっただろうに。

*8:日本語のすばらしさを生かした人称のぼかしであるように思える。また、ぼかされた人称によりリスナーは感情移入しやすくなる。第一・第二どちらの立場をとっていても、自然と共感してしまうようになる。要するに受け口を広げる効果をも同時に果たしているわけで、売れる曲となるべき要素を上手く取り入れていると考えられるのだ

*9:彼の美学は、特異なものであるというよりは現代において誰もが知らず知らずのうちに持ってしまうような性質を秘めている。ゆえに安吾はメジャー作家であり続けたのだと俺は思う

*10:最初は家制度の喪失とかに対する社会学的なことを書こうとしていて、よいわるいの価値的判断をこえて現代における家族の模索の可能性について書こうとしてた。例・血縁関係のある「他者」とはどういうものでありうるのか? とか。けれども文学の美学において書いたほうが面白い気がしたのでテーマを変えた。あひゃひゃ、書き出しで議論の始まりを予感させておいて結局は形而上学かよ、みたいな文体になっていることを「オチ」として機能させようとしたのだけれど、読み直したら全然オチてなかったので、ここに書き加えておく次第である。自戒を込めて。