知っていることは好むことに及ばない。好むことは楽しむことに及ばない。

 ストア派やカント主義にみられるような禁欲的道徳・倫理は人間の人間性をある部分で凄まじく損なう。別にストア派やカント主義に限定しなくても良い。哲学の思想におけるある種の性質は、人間の人間性を大幅に無視している。食欲肉欲睡眠欲を切り離した状態で人間が生存できるかといえば、生物学的に考えて無理である。名誉欲・金銭欲・受容欲などの社会的欲求を切り離した状態で人間が存在できるかといえば、現実的に考えて無理である。楽しさから完全に遠く離れたところで「生きよ」と突然命令されたところで人間はそのように生きられない。生には楽しみが必要である。
 飲まず食わず眠らず女犯もせず、という極限状況に自らを追い込み、幻覚かはたまた神秘体験か判然としないがとにかく何らかの直観を得ることを志向するならば、禁欲は良い方法であり、手段となるだろう。しかし、社会において働きつつ生きねばならないシホンシュギの時代に生まれてしまった我々は、そのような貴族にも似た生活はできない。また、僧侶のような修道生活もできない。せいぜい彼らの一部が残した説教集や著作などを目にし、その生活ぶりを想像し、理性を働かせることのまねごとができる程度である。私は自分の欲求を満たすために俗世に入り立ち回る。神経における閾刺激による反応と、経験により蓄積されパターン化された行動様式の束が動いているのではなくて、欲望の主体として常に活動している。理性を働かせて何事かを追求する以前に、意志と意欲にせき立てられながら活動しているのが人間・庶民のリアルな像なのだ。
 西洋の思想は特権階級のものだ。このことは間違いない。理性を働かせる、という事態は、冷静に考えれば実に非現実的である。観想的生活ほど得難いものはない。アウグスティヌスすら、彼の求めた完璧な観想生活に入れたのはわずかな期間だった。まして修道生活どころか商業に基づいた生活を営む我々が、どうして理性を働かせることができようか。この一点において、あらゆる哲学は人間の生を無視している。哲学することに成功した人間というのは、*1逆説的なことだが、人間の生から若干離れざるを得ないのだ。

 さて、西洋における哲学がいかに人間の生からかけ離れているかを論じたところで、少し論語に目を向けてみよう。
儒家による性善説では西洋倫理思想にも似た「共感」を原理とした道徳観が披瀝されている。惻隠の情を説く孟子などはまさにその典型であるし、孔子の仁が元々「共感」を基盤に置いているものだ。言うなれば、血縁関係を縦軸・共感原理を横軸にして編まれているのが儒家の道徳観であろう。キリスト教などの立場では超越的観点から「愛」が要求されて「共感」が原理となるだろう。ウパニシャッドでは個別化の原理を「マーヤーのヴェール」としてとらえるゆえに、マーヤーのヴェールを「まやかし」と看過し、真理を認識することによって「共感」が登場してくる。これら印欧語族の思想は、しかし、禁欲的・宗教的な実践としての意義を持ち、日常的な場面における欲望を度外視したものになりがちである。
 人間は実際にあらゆる人間に対し共感し、無償の愛を注げるのか? 不可である。だからこそ理想像としてのキリストが想定されている。人間は実際に個別化の原理を超えて他者の苦しみを自身の苦しみとしてそのまま受け取れるのか? 不可である。歯痛の例えにもあるように。「個別の存在はどこまでも個別である」と時間・空間に規定された感覚が経験的な証明を与えてくれている。こうして列挙すると、共感の原理は観念的な理想であって、思想であって、現実には有り得ない事態であるように見える。しかしながら儒家による共感道徳はこれらと異なる。すなわち、人の「楽しみ」を肯定し、意志・意欲を肯定するのである。
「王、百姓と楽しみを同じくすれば、すなわち王たらん」「民の楽しみを楽しむ者は、民もまたその楽しみを楽しむ。民の憂いを憂うる者は、民もまたその憂いを憂う。楽しむも天下と共にし、憂うも天下と共にする」といった論語の言説は、君主と民という関係性に規定されてはいるものの、禁欲的な道徳原理とは異なる思想を示すものとして興味深く考えることができるだろう。
 自・他の別を超えることを標榜している点においては、儒家の共感はウパニシャッド哲学のそれと似通っている。しかし、理性的・思惟的なものによって個別化の原理を超えるのではなく、むしろ意欲・意志・楽しむことを前提して個別化の原理を超える、という点では、印欧語族の共感原理と決定的に異なる性質を持っている。すなわち、ここでは意志・意欲が肯定され、現実における社会的生活の中で楽しみを共有する過程から共感が引き出されてくるのである。
 もちろん孔子孟子が完璧に社会をとらえていて、これらの思想が完璧であると断言するつもりは私にはない。結局当時において最大勢力を誇ったのは性悪説から派生した法家による法治国家であった。その法家の思想すら極論を言うならば空理空論である。しかしながら、「共感」という原理は主客の別・個別化の原理によって隔てられ、もはや相互理解の手段を完全に失い、言葉を持っているのに言葉を伝えられず、無言の空気の中で過呼吸に陥って死に体となっている人々がゴロゴロしている現代社会において、きわめて有用なものである。その「共感」を取り扱うとき、西欧の思想の方法のみを用いていれば、結局は貴族しか他人に共感することなんてできない、と結論付けずにはいられない状況に至ってしまうだろう。あるいは、不可能なほどの禁欲的傾向を要求されたり、宗教的神秘体験にも似た地平においてのみ「共感」が想定されたり、いずれにせよ現実性を大幅に欠いたものとなってしまうだろう。儒家の共感道徳は、西欧のそれに比べれば少しだけ人間の人間性を大切にしているように見えるし、そうでなかったとしても現在の視座からそのように読み・解釈することが可能である。今まで私たちはロゴスだけをもてあそびすぎたのかもしれない。パトスに目を向けなければ、人は人でなくなってしまう。人はロゴスのみに生くるにあらず、だ。

*1:というよりはむしろ「人間の生から離れて生きる」こと自体が哲学の理想である。それをしないで政治にコミットすればソクラテスのように死に追いやられ、プラトンのように政争に巻き込まれる。アリストテレスは賢明で、観想生活を理想として掲げた。つまり、現実ではありえないこと=理想だ。観想を理想として叫ばねばならなかったアリストテレスは、おそらく理性を働かせて生きることが現実状況とそぐわないのだ、という事実を痛烈に認識していたのだろう