もう見飽きましたぜ、個人至上主義は。

 自分と他人をとことんまで区別して、「確実に明らかだと言い切れるものは自分の感覚・感情・クオリア等々そうした類似のもの、それだけなのだ!!」と言う人たちは後を絶ちません。
 独我論、自己論。どれにしたってegoなわけですが、ともかくこういう言い方は大流行です。

 

「あなたの気持ちは、痛いほどよく分かります。」

と言いながら、

とんでもなく見当違いの同情

をしてくれる方がいらっしゃいます。

その方は、オイラがどのように傷つき、怒り、憎み、

恐れ、深い悲しみにうちふるえているかを、せつせつと語るんですが、

一から十までピントがズレまくっていたりします。

オレは確かに苦しんでいるが、

そんな激しくどうでもいいことで

苦しんでるわけじゃないんだよ。

その人が「痛いほどよく分かる」というオレの喜怒哀楽は、

フィクションであって、実在するオレの喜怒哀楽とは全くの別物なんですよ。

唯一ノンフィクションだと言い切れるのは自分の感情やクオリアだけです。

自分は「苦しんでいる自分」を直接感じることができる。

自分は、自分の感覚の中で起こっていることと同じことが

他人の中でも起こっているに違いないと「想像」しているだけです。

自分は、他人の中で起こっている感情やクオリアを直接感じているわけじゃない。

この意味においては、

いかなる他人の感情も、想像の産物=フィクションである可能性を否定できません。

「目の前の人間の中でも、自分の中で起こっているのと同じような

感情反応が起こっているに違いない」というふうに、

他人を「擬人化」しているだけなんです。

もっと正確に言うと、これは「擬人化」というより「擬私化」です。

他人の中でも、自分の中の感情反応と同じようなことが起こっているに違いないと、「私」に擬して理解しているからです。

http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080422/p1#seemore
分裂勘違い君劇場「「人間の少女には心がある」のと同じ意味で「二次元のアニメ美少女にも心がある」かもしれないよ」

 もの凄くわかりやすいです。
 なんといっても、感覚は自分ひとりのものです。この点において、彼はまったくもって誤っていません(極論ですし)。大森を読まなくても、例えばデカルトせんせーの方法的懐疑やらなにやらを紐解けば、「他者の存在は疑いうる→すべてを疑ったうえで、いま疑っている自分の存在だけは疑えない」って話になりますし、ヴィトゲンシュタインせんせーは「自分の歯痛をまったく同じように感覚する他人はいない」みたいなことを言っています。基本的には他人は全部フィクションでありえます。そうなはずです。
 極論なんですけれど、それでも現代の人が考えてることを一部言い当てていると思います。なので、ありがちな一般人の認識の例として上げさせていただきます。ありがとーございましたっ。

 ところで、現実問題として考えると、人間はなぜか他人を「あれも人間だ」として認識してしまう癖がありますよね。どう見ても私とは全く別の存在なのに、別の姿なのに、他人なのに、自分と同じような性質をどこかしらに認めて、「あれも私と同じく人間らしい」と認識してしまいます。
 俺という存在と向井秀徳という存在は別ものなのに、なぜかどちらも「人間だろう」なんて思っちゃう。見たことないのに。
 実際に見たことある存在でも、俺という存在とklovという存在がどちらも「人間」だ、なんて思っちゃう。大学の新歓なんかで非・人間をわざわざ勧誘するヤツはなかなかいません。だいたい、人間らしいものを勧誘してきます。
 なぜか人間は人間の類を理解しちゃうんです。
 イヌにしたってそうですね。
 人間は、ゴールデンレトリバーからドーベルマン、チワワにいたるまで「イヌ」なんて類でくくっちゃうんです。むしろチワワでもそこのアイフルちゃん、チロルちゃん、トンヌラちゃんとかそれぞれ個別の飼い犬がいたりするのに、全部「チワワ」なんて種でくくります。これは実は凄い大きなことじゃないですか?*1

 たとえば。あらゆるヲタクにとって二次元美少女こそが実在であると実感でき、認識できれば世界は桃源郷です。けれどもそれはどうしても不可能です。二次元美少女は自分と異なるものだ、と認めざるをえなくなります。どうしても、「あれは絵らしい」「あれは情報らしい」なんて認識してしまうんです。だから「モニタの中に入れない」なんて言うんですよね。哀しいことです。
 つまり、こうした類的な認識というものは、意図を超越しているんです。
 「フィクションだと思いたくても思えない」「リアルだと思いたくても思えない」こういうままならなさがあります。存在の同質性の直観とでも言いましょうか、コレは本当に直観なんです。動かしがたいんです。

 その理由を考えましょう。
 そもそも人間はなにかものを考えるときに「ことば」を使って考えます。「ことば」というのは本来全く異なるものどうしの間に類似性を見いだす役割と・全く異なるものどうしにそれぞれ異なる名前をつけて区別する役割とを同時に併せ持ちます。(イヌ・チワワ みたいに)
 例えば、丸かろうが四角かろうが赤かろうが青かろうが異常に大きかろうが小さかろうが、なにかしら我々がリンゴをリンゴだと認識する条件がそろっていれば、「リンゴだ」と考えてしまいます。なぜ箱に入れて栽培した四角いリンゴを我々は「リンゴ以外のなにかの果物」と考えず「リンゴ」ととらえてしまうのか? なぜマグリットの「耳をすます部屋」にて部屋いっぱいの大きさを持つなにかを「リンゴ以外の何かの静物」ととらえず、「リンゴ」ととらえてしまうのか? 疑問に思わなくてはいけません。それぞれ全部違うものなのに、なぜ「リンゴ」という共通項をくくりだしてしまうのでしょうか?

 もっちろん、人間がそういう形式でしかものごとを考えられないように限界づけられた存在だからです。
 生物学的にこのことを誰か解明してくれれば、哲学の仕事が一個減ると思うんですけど……寡聞にして俺はそんな偉大な学者のことは知りません。また、哲学的にもこのことは解明されていません。なぜなら、哲学が扱うのは「ことば」を用いた上での問題設定なので、「ことば」そのものの枠組みについては巧く論じられていないのです。このあたりもっとがんばれ、言語哲学者たち。

 ということで、結論。理由は理論化されてませんwwwwww。

 ただ、こういう人間の特徴はファジィにものごとをとらえるコンピュータなどに応用されていましたから、様相論理学やら何やらの発展とともに少しずつ解明されていくのかもしれません。

 ともあれ、認識の形式として言語にとらわれている以上、人は同類項でなにものかをくくりながら認識し、何事かを知り、考えます。
 私も彼も「人間だ」という同類項でくくってしまうのは、もはや人間に産まれた場合のサガなのです。そして「人間らしい」と認識してしまえば、自分と彼との同じ性質=喜怒哀楽を持つ・感覚を持つだろう、という風に考えざるを得なくなってしまいます。
 私も彼も同じ。そう感じてしまうところから認識は始まっているのであって、自分と他人を分けようと認識するのは実はその後なんです。だって。「考えたあげく残るのが自分だけ」っていう論法でいくなら、「考える」という行為をした時点で「ことば」を使った、という形式にとらわれちゃうんですから。

 今流行ってるのは「個人主義」ですし、自分の感じている感覚以外は全てフィクションだ! というとらえ方です。ですが、このとらえ方は結局は「ことば」遊びに依拠した知的遊戯ですし、あくまで「自分認識中心説」という仮説に過ぎず、下手すればただの科学的世界観信仰です。
 俺が提唱する「形式」ばった世界観もあくまで「信仰」です。なんといっても理論的に説明せず、我々の直観に訴えているのですから。でも総てがことばで片付くなどと思うほうがばからしいです。ことばなんてあくまで形式です。フィクションだろうが実在だろうが、我々は我々を取り巻く世界を汲み尽くすことなんてできやしません。時間と空間にはばまれて、知ることができるのはせいぜい八十年分の経験だけです。それを少しでも効率良くしようと、類型化してまとめて認識しようとする「ことば」は、類型化した分だけそぎ落とした部分がたくさんあるんです。それは仕方ないんです。でも、そのおかげで「共感」「同情」はできるんです。

 べつに共感やら同情やらをありがたがる意識なんぞ俺にはちゃんちゃらありませんが、「自分以外が絶対に存在しない世界」を想定して・不必要な孤独感にひたり、隣に居る大好きな異性が「実はフィクションかもしれねぇwwwww」なんて疑い続けながら知的を気取りつつ生きるよりは、俺が提唱する世界観の方で生ぬるい「人類皆類友」な感覚につかりながら生きていく方が肩の力も抜けて楽ですよん。

 共同体意識やら何やらを遠回しに論理武装して否定するのは、実は「ことば」にとらわれすぎて「感覚」とか「直観」を信じられなくなった人たちだと思うんですよね。
 分裂勘違い劇場のエントリは、まさにそういう人をうまく抽出していました。
 だから俺は「感覚」頼りの極論を展開してみましたwwwwww
 さぁみんな踊らされようねっ!
 俺もお前もみんな同じ!! 人類皆兄弟!!

*1:ちなみに、こうした認識に不全を来す症状の人こそ、脳の機能に障害があったりする珍しい病気の症例になったりして、有名になったりするわけですが。サヴァンやらもコレに若干近いですよねー。