*1「産む機械」発言のどこが問題なのかね? と問うてみる。

 柳沢伯夫厚生労働相は27日、松江市で開かれた自民党県議の集会で講演した。講演は年金・福祉・医療問題に関するもので、出席者によると、柳沢厚労相少子化対策に言及する中で「15から50歳の女性の数は決まっている。生む機械、装置の数は決まっているから、機械と言うのは何だけど、あとは一人頭で頑張ってもらうしかないと思う」などと述べたという。少子化対策にかかわる閣僚による、女性を「出産する機械」とも例える発言だけに、今後批判を強く受けそうだ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070128-00000005-maip-pol毎日新聞 070128)

俺、これだけ見る分には、柳沢伯夫厚生労働相の発言に対してそんなに違和感を感じないんですが……それって*1俺が女性蔑視的思想を持っているってことなんですかね? だって女性に「産む機能」が備わってることは事実ですし、少子化対策なんて第一に子供を女性に産んでもらうほかないですし、そうすると今居る出産可能な女性の数の分だけできることが限定されるわけですし……
産む機械というのは、女性の人格を否定した形の発言になる」という類の批判が相次いでますが、厳密に経済学上の問題として少子化問題を考えるならば、「人格を否定」したいという気持ちがあるわけではなかったとしても、どうしても人格についての言及を削った表現を使っていかないと、「問題について考える」ことすらできなくなると思います。
なぜなら、経済の問題について語るとき、どうしても人間は数として計量可能なものに還元されてしまうからです。このとき、「数」でしかないはずの人間に人格を認めることはナンセンスでしょう。
まぁ、人間を純然たる数字の世界で考えることほど"ナンセンス"なこともないと思いますがwww。皮肉なもんで人間にはsence of wonderあるいは良識やら理性やら、「センス」にあたるものが備わってるみたいなので、今回みたいな批判が巻き起こるのも当然なんですが……

klov氏なんかは柳沢伯夫厚生労働相の方針を

確か大臣は本来なら経済学畑の人間であるから、そこらへん経済学者としてはまぁさもありなんといった考え方なのかもしれない。もしかしたら、安部さんはそうした彼の考え方を知った上で任命したのか。だとしたら少子化問題そのものをエコノミカルに扱おうというのは、この政権のコンセプトなのだろう。

と評してます。言い得て妙で、少子化問題は何の問題なのか、ということをちょっち問い直す必要があるのです。
柳沢伯夫厚生労働相がやったように、純然たる経済的問題として捉えようとすると、新たな問題が噴出する少子化問題。いったい何が問題なのでしょうか?
エコノミカルな側面から言えば、少子化によって税源の減少やら福祉の停滞やら経済の停滞やら国力の減少やらが起こるのは俺がわざわざ論ずる必要もないくらいに既に当たり前だ、と世間でみなされていることであり、これを止める方法は「子供を産んでもらう」以外ないわけです。

ですが、少子化問題の原因は多岐にわたります。「どうやって産んでもらうか」と考え始めると、いくつも思い当たるはずです。
つまり、問題をどこから解決すべきかなぁ? と考えるとき、とっかかるべき根っこがいくつもあるのです。
これが少子化問題が厄介な理由でしょう。

「女性に大変失礼」・鳩山氏が厚労相発言を批判
 民主党鳩山由紀夫幹事長は28日、柳沢伯夫厚生労働相が「(女性は)産む機械」などと発言したことについて「謝っているとしても、女性に対して大変失礼な発言だ」と批判した。都内で記者団の質問に答えた。

 同時に「産む、産まないは女性の、あるいは家庭の自由だ。出生率の低下は厚労省が子どもを産み育てやすい環境をつくってこなかったことに原因があり、女性の権利をもっと尊重してほしい」と指摘した。〔共同〕(15:01)


http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070128STXKA005128012007.html

彼の発言に対して現れる批判が、ちょうど少子化問題の多くの側面と根っこを表しているので挙げます。

まず「女性に大変失礼」などの発言は「少子化問題と女性の立場問題をつなげて考える」立場だと読み取れます。
男尊女卑を改めようとする思想の現れです。男尊女卑を改めようとして、男性と同じ立場に立とうとする思想です……その方法論は今では少し古いと俺は思いますが。そう、第一波フェミニズムから始まってアメリカ・ウーマン=リブにつながったあの思想です。
しかもそれの劣化コピーです。「機械」という言葉が何か悪いものであるかのようにとりあえず受け取っておいて、自らのことが尊重されなかった、と考え文句を言う、*2ヒス女の被害妄想にも似た言い方をします。第二波のフェミニズムなら、ここで開き直って「産む機能のある女性」を誇れ、と言うところでしょうか。俺は、日本において、女性の存在について考えることが未だに未熟なままであることに驚きを禁じ得ません……まだ日本は70年代のアメリカくらいのレベルでしか「女性」を捉えていないのでしょうか? どう考えても、思想の面で途上国です、日本は。

次のセンテンスです。
「産む、産まないは女性の、あるいは家庭の自由だ。出生率の低下は厚労省が子どもを産み育てやすい環境をつくってこなかったことに原因があり、女性の権利をもっと尊重してほしい」
この発言には極めて奥深いものが隠されています。すなわち、ミルの自由論なんかにあったような、自己決定権の問題です。
まず第一文を見てみましょう。「産む、産まないは女性の、あるいは家庭の自由だ」とするのは、本当に是なのでしょうか? それらの決定は、本当に自分ひとりの判断によって決めうるのでしょうか? 厳然たる事実として国家丸ごとの問題になりつつある少子化問題を、なぜ「個人の権利だから」「国家は関係ない」と断言して憚らないのでしょうか? 論理的に考えればおかしいことは明白ですが、弱ったことに、日本において普及している価値観は「自己決定の尊重」であるため、この論法は驚くべきことに威力を持つのです。
……日本こええ。
第二文を見てみます。「出生率の低下は厚労省が子どもを産み育てやすい環境をつくってこなかったことに原因があり、女性の権利をもっと尊重してほしい」
第一文で、「産む・産まないを決めるのは個人の権利」と宣っておきながら、「出生率の低下は〜〜」と責任は政府に押しつけるという随分興味深い*3論理の展開が起こっています。まぁそれはひとまず置いておきましょう……
さて、確かに、事実として過去の日本の社会は子供を産み・育てながら働くのには比較的不利な条件を抱えていましたし、それが社会問題であったかもしれません。あるいは、女性は家庭に入るもの、という固定観念がありました。
しかし、現代に至って、制度・数字の上では妊娠・出産と仕事は抜群に両立しやすくなっています。それなのに、出生率は落ち続けています。それは単純に「社会が悪い」のでしょうか?
例えば、以前のような「子供を育てにくい」社会ならば、社会に合わせて自らの「働きたい」という欲望を抑え、たとえば「子供を産んだら家庭に入る」という選択肢を選ばされていたわけです。これは確かに不自由だったので、「自己決定権」を尊重する立場からすると是正されるべきです。俺も、仕事を続けたいのに女性であるだけで理不尽に首にされる、というのは社会的悪だと思います。
ですが、現在は、流石に産まないよりは条件は悪くなるとはいえ、産み・育てながらの生活が可能になりつつあります。それなのに、ひたすら女性たちが「産まない」という選択肢を選び続けるのは、彼女らは「自己決定権」が大きいのに任せ、「自分がそうしたい=働きたい、それももっと有利に」ことを重視しているのです。
このような女性の強い自己主張は、たとえば「子供を持ちたい」と考える夫たちとの意見の相違を多く生じさせ、意見の相違からの*4離婚が増え、「バツイチ」になり、仕事に没頭し、なおさら子供を持つことから遠ざかる、という悪循環すらもたらします。
妊娠して身体の都合で働きが少しくらい悪くても減給なし、雇用は完全に保証、産休だって増やすよ、会社に来なくても全然OK、育児の事情で突然早退してもいいよ、それでコンスタントに会社にいる男性と全く同じ給料あげるよ、女なんだから仕方ないよね、なんて企業が言ってくれることを、あるいはそのような社会を政府が作ってくれることを、自己主張の激しい現代日本の女性たちが本気で待っているのなら甘過ぎます。でも、俺には第二文の後半「女性の権利をもっと尊重してほしい」という文章が、もっと楽して金をくれ、という*5わがままにしか見えないのです……だってこの文脈だとそういう意味にしか取れないじゃないですか。

今、「経済的に」問題となり始めている少子化問題は、弱ったことに、日本における「女性」の思想にその根本的原因があると俺は思います。つまり経済的施策によっては簡単に解決できない問題なのです。
「女性であること」「男性であること」をもっと厳しく受け止めて、埋まらない溝を受け容れる必要があるのではないでしょうか。そろそろ、男女にかかわる思想の上で、日本は途上国から抜け出してほしいものです。
もちろん柳沢伯夫厚生労働相はあほです。しかし、その発言について深く「なぜああいう言い方をした?」と考えることもなく「機械だなんて!」「失礼だ!」「(よしそれなら)(祭るならイマノウチ……)もっと女性に権利を!」なんて言ってるうちは、少子化問題どころか日本における「女性」像はこれからも変わらないまま、女性自身も変わらずヒステリックなまま、そして日本の社会は変わらないまま、人口減少という癌にかかって、緩慢に腐って落ちて消えていくだけだと思います。

*1:俺は男女を区別したほうがいいと思ってます。差別的だとよく人に言われます。あー俺サベツしてるな、という自覚もあります。

*2:最近は男もよく手に負えないヒスを起こしますのでこの表現は不適当かもしれませんが、とはいえやはり俺にとってピンとくる表現はヒステリック=女、です。差別的に聞こえたなら謝罪します。

*3:「私」の権利の行使なのに責任を求められるのは「国」……いかにも日本らしいすり替え方だなぁと思います。

*4:夫婦間で意見が一致しなければ、「我慢=自己主張を止めて他人に譲ること」せずにあっさり離婚するのも「自己決定権」に絶対の強さを認め、他人に自分を譲る必要なんてねーよ、と耳元でささやく思想があるからだ、と俺は考えています。離婚の問題についてはまた触れることもあろうかと思います

*5:自己主張、と読み替えられる「わがまま」。自由を伸張するのがミル的「自由論」なのですが、日本のようになれ合い的他者関係=自己と他者の区別を曖昧にする(土居健郎 甘えの構造 参照。うろおぼえ……)を基盤としつつ自己を主張する、というのは、自・他の境界線を明確に引き、その上で自由を主張する「自由論」の射程を外します。「他者危害の原理」が機能せず、自・他が一緒くたになってる状態で「自己主張」「自己決定」すりゃそりゃわがままになるさ……だって公=publicについて考えないで自分の権益についてぎゃーぎゃー言うだけだからね! という構造だと俺は思っています