注・この日記は要するに自分の趣味を語るだけのくだらんものです。笑ってやり過ごす度量のない方、そもそも自分語り全般嫌いな方ごめんなさい。
ヤせたい女性が偏在する現代日本では、女性の痩身欲をあおるような広告が目につく。男性女性問わず、体重を気にする姿勢は共通しつつある。「美しさ」の規準においては「痩せている」こと、「スリムである」ことが絶対条件であるかのように見せつけられている。
でも俺は単に痩せている女性に美をあまり感じねぇ。いや、不健康なほど肉がそげてる女子はそれはそれでエロいなぁーとか思わなくもないけど、健康的な魅力ってのももっと喧伝されていいと思うわけであって。気にするべきは体重やら体脂肪やらの数字ではなく、見たときに「ああこのひとは魅力的だっツ!!」と思わせるための「何か」「素敵なsomething」なのです。なのに誰もが身長と体重の計量可能な数値を気にしてばかり。なんだこれ。なんだこの逆転現象。美しく見せるために手段として使うべき数値計測が、気づけば美しさの条件となり、美しい=体重少ないというよーに目的にすりかわっていく。なげかわしい。実になげかわしい。とくにぽっちゃり系+脂肪の下にちょっと締まった筋肉があるくらいが一番エロいと思う俺からすれば絶体絶命の危機だね!!!! 俺の目の保養ができないね!!!! 好みのタイプも見つからなくなるね!!!! マジ勘弁してくれ!!!!
女性はすべからく食事制限をする前に筋トレしたり運動したりすればいいと思う。体脂肪率を減らしてそのままの体重で張りのある肉体を保ってほしい。筋肉がなくて痩せている人のくすんでたるみ気味の肌はあんまり好みじゃない。血色が悪いのもなんとなく好みじゃない。適度に体に刺激を与え続けている人の肉体こそ美しい。心からそう思うのです。
少なくとも腕立て+腹筋のコンボで胸周りのメリハリと張りができて、ついでに背筋もやっちゃえば腰痛対策になるじゃんよ。何ひとつ損はないよ。ついでに男は喜ぶよ、馬鹿だから。おっぱい! おっぱい!
さほど肥満でもないのにモデル体型を目指しちゃって食事制限して体重減らす、ってことは自分の体積が減って弱体化することなんだぜ……? 体に悪いだろうに……
「健康美」ってのをもっとメディアは喧伝すべきなんだと思う。大事なことなので二回言いました。健康美。マジ健康美。アタマでっかちの数字狂いが「美しいってのは身長が160cmなら体重は39kg!!」とか言い張ってもシカトしましょう。生物としてひとりひとりが最高のパフォーマンスを発揮できるようなコンディションが一番美しいのです。あと、俺の好みです。
これを最後まで読んだ女子が思い立って筋トレをはじめてくれて、健康になって幸せになったり、いつかどこかで俺とすれ違って目を楽しませてくれたりする可能性は皆無でしょうけどねーん。それでもなんとなくインジスト。俺、ちょっぴり筋肉質な女子が好きなんだー!!
テニス関連メモ
自分用練習メニュー
1/前歩きしながらのストローク一本打ち、手出し。サービスライン上から始めるorベースライン上からはじめる。ラインの上にミニパイロンを配置し、後から前へ回り込むフットワークの養成を兼ねるようにする。意図は「上体のターンによるテイクバックの確立」、「体を前へ持って行きながら打つタイミングの把握」、「打点の確認」。バックハンドはとくに打点に留意し、上半身・下半身それぞれの動きを確認する。左手でボールを拾えるように動くのが目安。手出しをしてもらう相手に番号を叫んで貰い、手でとる・打つの動作を分けて行えば判断力の育成・フットワークの確実さの育成につながる。
2/上記1を球出しで行う。勢いがついて飛んでくるボールに対し、先に後から入り、踏み込んで打点をとらえること。上半身の動きを1で出来る限り確立させておき、フットワークの修正・距離感の修正を行えるようにする。
1・2においては、ボールが「入ったかどうか」よりも「体をしっかり使えているかどうか」、また「体をしっかり使えた場合、どのような感覚があるのか」を把握することに重点を置く。手応えをしっかり体に覚え込ませるようにする。
また、1・2と出来る限り同じ形式でスライス・トップスピン・フラットなどの打ち分けを行っておく必要がある。ボレー時のフットワークも「前歩き」感覚に修正していく。ボレーを打つときは常に腰とラケットの距離が同じであるように心がける。打点の高さは膝の曲げ具合で変える。
3/サービス練習。打点の確認、トス時のラケットワークの確認。スピンをフラットサービスと同じ打点からかける練習。これも「手応え」を重視していくようにする。意図は「サービス打点の安定」、「試合中における修正点の確認」、「ラケットワークによるスピード加速の模索」など。
4/ラリー上の留意点・フットワークでしっかり踏み込み、スイング自体は出来る限り「面を作って返す」に留めるように心がける。きちんとした手応えを感じつつ打てるようになったら少しずつ上体のターン量を増やしていく。また、打点の位置にラケットをセットし、上体のターンのみで行うテイクバックからライジング気味にボールを叩いていくストロークも試していくこと。この場合、ライジングの前に必ず打点の後に回り込み、前へ歩き出しながら打つことを意識すること。意図は「ミスの減少を基本としつつ、ストロークの質を上げること」、「ライジングも織り交ぜてリズムを崩せるようなストロークのスタイルを身につけること」。
とにかく横向きを作れば良いテニスは終わったっぽい。あとはこれらのことを実践していけるように体に染みつかせるべし、だ。とにかく基本になるフットワーク自体が全然違ってくるので、早いところ馴染ませていかないと体がついていかない……現状だと「うまくいった場合=エース級、あるいは相手を攻めさせない程度のショット」か「うまくいかなかった場合=ミスショット、あるいはシャンクによりチャンスボールが相手コートへ」という感じなので、出来る限りインパクトを大事にしていかなくてはならないはず。
あーやっぱり93インチは辛いのかもしんないwwwwGraphiteの107inchに手を出しちゃおうか……いやしかしお金がない……
もう見飽きましたぜ、個人至上主義は。
自分と他人をとことんまで区別して、「確実に明らかだと言い切れるものは自分の感覚・感情・クオリア等々そうした類似のもの、それだけなのだ!!」と言う人たちは後を絶ちません。
独我論、自己論。どれにしたってegoなわけですが、ともかくこういう言い方は大流行です。
「あなたの気持ちは、痛いほどよく分かります。」
と言いながら、
とんでもなく見当違いの同情
をしてくれる方がいらっしゃいます。
その方は、オイラがどのように傷つき、怒り、憎み、
恐れ、深い悲しみにうちふるえているかを、せつせつと語るんですが、
一から十までピントがズレまくっていたりします。
オレは確かに苦しんでいるが、
そんな激しくどうでもいいことで
苦しんでるわけじゃないんだよ。
その人が「痛いほどよく分かる」というオレの喜怒哀楽は、
フィクションであって、実在するオレの喜怒哀楽とは全くの別物なんですよ。
唯一ノンフィクションだと言い切れるのは自分の感情やクオリアだけです。
自分は「苦しんでいる自分」を直接感じることができる。
自分は、自分の感覚の中で起こっていることと同じことが
他人の中でも起こっているに違いないと「想像」しているだけです。
自分は、他人の中で起こっている感情やクオリアを直接感じているわけじゃない。
この意味においては、
いかなる他人の感情も、想像の産物=フィクションである可能性を否定できません。
「目の前の人間の中でも、自分の中で起こっているのと同じような
感情反応が起こっているに違いない」というふうに、
他人を「擬人化」しているだけなんです。
もっと正確に言うと、これは「擬人化」というより「擬私化」です。
他人の中でも、自分の中の感情反応と同じようなことが起こっているに違いないと、「私」に擬して理解しているからです。
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080422/p1#seemore
分裂勘違い君劇場「「人間の少女には心がある」のと同じ意味で「二次元のアニメ美少女にも心がある」かもしれないよ」
もの凄くわかりやすいです。
なんといっても、感覚は自分ひとりのものです。この点において、彼はまったくもって誤っていません(極論ですし)。大森を読まなくても、例えばデカルトせんせーの方法的懐疑やらなにやらを紐解けば、「他者の存在は疑いうる→すべてを疑ったうえで、いま疑っている自分の存在だけは疑えない」って話になりますし、ヴィトゲンシュタインせんせーは「自分の歯痛をまったく同じように感覚する他人はいない」みたいなことを言っています。基本的には他人は全部フィクションでありえます。そうなはずです。
極論なんですけれど、それでも現代の人が考えてることを一部言い当てていると思います。なので、ありがちな一般人の認識の例として上げさせていただきます。ありがとーございましたっ。
ところで、現実問題として考えると、人間はなぜか他人を「あれも人間だ」として認識してしまう癖がありますよね。どう見ても私とは全く別の存在なのに、別の姿なのに、他人なのに、自分と同じような性質をどこかしらに認めて、「あれも私と同じく人間らしい」と認識してしまいます。
俺という存在と向井秀徳という存在は別ものなのに、なぜかどちらも「人間だろう」なんて思っちゃう。見たことないのに。
実際に見たことある存在でも、俺という存在とklovという存在がどちらも「人間」だ、なんて思っちゃう。大学の新歓なんかで非・人間をわざわざ勧誘するヤツはなかなかいません。だいたい、人間らしいものを勧誘してきます。
なぜか人間は人間の類を理解しちゃうんです。
イヌにしたってそうですね。
人間は、ゴールデンレトリバーからドーベルマン、チワワにいたるまで「イヌ」なんて類でくくっちゃうんです。むしろチワワでもそこのアイフルちゃん、チロルちゃん、トンヌラちゃんとかそれぞれ個別の飼い犬がいたりするのに、全部「チワワ」なんて種でくくります。これは実は凄い大きなことじゃないですか?*1
たとえば。あらゆるヲタクにとって二次元美少女こそが実在であると実感でき、認識できれば世界は桃源郷です。けれどもそれはどうしても不可能です。二次元美少女は自分と異なるものだ、と認めざるをえなくなります。どうしても、「あれは絵らしい」「あれは情報らしい」なんて認識してしまうんです。だから「モニタの中に入れない」なんて言うんですよね。哀しいことです。
つまり、こうした類的な認識というものは、意図を超越しているんです。
「フィクションだと思いたくても思えない」「リアルだと思いたくても思えない」こういうままならなさがあります。存在の同質性の直観とでも言いましょうか、コレは本当に直観なんです。動かしがたいんです。
その理由を考えましょう。
そもそも人間はなにかものを考えるときに「ことば」を使って考えます。「ことば」というのは本来全く異なるものどうしの間に類似性を見いだす役割と・全く異なるものどうしにそれぞれ異なる名前をつけて区別する役割とを同時に併せ持ちます。(イヌ・チワワ みたいに)
例えば、丸かろうが四角かろうが赤かろうが青かろうが異常に大きかろうが小さかろうが、なにかしら我々がリンゴをリンゴだと認識する条件がそろっていれば、「リンゴだ」と考えてしまいます。なぜ箱に入れて栽培した四角いリンゴを我々は「リンゴ以外のなにかの果物」と考えず「リンゴ」ととらえてしまうのか? なぜマグリットの「耳をすます部屋」にて部屋いっぱいの大きさを持つなにかを「リンゴ以外の何かの静物」ととらえず、「リンゴ」ととらえてしまうのか? 疑問に思わなくてはいけません。それぞれ全部違うものなのに、なぜ「リンゴ」という共通項をくくりだしてしまうのでしょうか?
もっちろん、人間がそういう形式でしかものごとを考えられないように限界づけられた存在だからです。
生物学的にこのことを誰か解明してくれれば、哲学の仕事が一個減ると思うんですけど……寡聞にして俺はそんな偉大な学者のことは知りません。また、哲学的にもこのことは解明されていません。なぜなら、哲学が扱うのは「ことば」を用いた上での問題設定なので、「ことば」そのものの枠組みについては巧く論じられていないのです。このあたりもっとがんばれ、言語哲学者たち。
ということで、結論。理由は理論化されてませんwwwwww。
ただ、こういう人間の特徴はファジィにものごとをとらえるコンピュータなどに応用されていましたから、様相論理学やら何やらの発展とともに少しずつ解明されていくのかもしれません。
ともあれ、認識の形式として言語にとらわれている以上、人は同類項でなにものかをくくりながら認識し、何事かを知り、考えます。
私も彼も「人間だ」という同類項でくくってしまうのは、もはや人間に産まれた場合のサガなのです。そして「人間らしい」と認識してしまえば、自分と彼との同じ性質=喜怒哀楽を持つ・感覚を持つだろう、という風に考えざるを得なくなってしまいます。
私も彼も同じ。そう感じてしまうところから認識は始まっているのであって、自分と他人を分けようと認識するのは実はその後なんです。だって。「考えたあげく残るのが自分だけ」っていう論法でいくなら、「考える」という行為をした時点で「ことば」を使った、という形式にとらわれちゃうんですから。
今流行ってるのは「個人主義」ですし、自分の感じている感覚以外は全てフィクションだ! というとらえ方です。ですが、このとらえ方は結局は「ことば」遊びに依拠した知的遊戯ですし、あくまで「自分認識中心説」という仮説に過ぎず、下手すればただの科学的世界観信仰です。
俺が提唱する「形式」ばった世界観もあくまで「信仰」です。なんといっても理論的に説明せず、我々の直観に訴えているのですから。でも総てがことばで片付くなどと思うほうがばからしいです。ことばなんてあくまで形式です。フィクションだろうが実在だろうが、我々は我々を取り巻く世界を汲み尽くすことなんてできやしません。時間と空間にはばまれて、知ることができるのはせいぜい八十年分の経験だけです。それを少しでも効率良くしようと、類型化してまとめて認識しようとする「ことば」は、類型化した分だけそぎ落とした部分がたくさんあるんです。それは仕方ないんです。でも、そのおかげで「共感」「同情」はできるんです。
べつに共感やら同情やらをありがたがる意識なんぞ俺にはちゃんちゃらありませんが、「自分以外が絶対に存在しない世界」を想定して・不必要な孤独感にひたり、隣に居る大好きな異性が「実はフィクションかもしれねぇwwwww」なんて疑い続けながら知的を気取りつつ生きるよりは、俺が提唱する世界観の方で生ぬるい「人類皆類友」な感覚につかりながら生きていく方が肩の力も抜けて楽ですよん。
共同体意識やら何やらを遠回しに論理武装して否定するのは、実は「ことば」にとらわれすぎて「感覚」とか「直観」を信じられなくなった人たちだと思うんですよね。
分裂勘違い劇場のエントリは、まさにそういう人をうまく抽出していました。
だから俺は「感覚」頼りの極論を展開してみましたwwwwww
さぁみんな踊らされようねっ!
俺もお前もみんな同じ!! 人類皆兄弟!!
TYPE-MOONはもういい加減にしたほうがいいと思うよ
- ここから誤解で書き殴った部分。具体的には、「月姫リメイク・Girl's work」も出すという情報を知らず、新作が「まほよ」一択だと思いこんでしまった哀れな俺のバカテキストです。
やっとこさ新作情報が発表されました。新旧ファン皆狂喜乱舞するであろう「魔法使いの夜」略して「まほよ」がどうやらゲーム化するようです。
……って、よりによって「まほよ」かよ!!
姉=蒼崎橙子、妹=蒼崎青子で館もので青春伝奇な「まほよ」かよ!!!!
竹箒初期HPに画像が沢山載ってたの今も持ってるよ俺!!
要は*1fateに続いて奈須きのこ過去作品群のリメイクかよ!!
うれしさもありますが、失望もしました。
てゆうか、奈須きのこは自分のファム=ファタールであるところの「妹キャラ」をどれだけプッシュすれば気が済むんでしょうかね。「鮮花」「秋葉」「凜」「青子」の*2同系統っぷりはガチすぎてもうネタにすらなりゃしませんよね。つーかFateで凜が姉キャラになったのはきのこ氏が月姫の秋葉で若干妹妹した妹に飽きたんだろうなぁ、どうせ設定の時点じゃー*3妹だったんだろうけどよぅ。
ところで、きのこにとっての最強キャラ=妹キャラ類型は、ゲームにおける第一メインヒロインに立たない傾向がありました。月姫ならアルクェイド、Fateならセイバー。奈須きのこのファム=ファタールは、いつも「二号さん」なのでした。けど作者からの愛され度は明らかに最大です。テキストで萌え萌え度を最も追求し、ツンデレ・素直になれない・好意の深さは最大級っていう三種の神器を揃えてくる秋葉・凜に対しあっさりKOされた大きなお友達は数知れないはずです。アレ、当然。だってシナリオライターが萌えながら書いてる(はずだ)もの。
しかし今回は多分青子が第一メインヒロインである、と思われる「魔法使いの夜」です。菌糸類の大暴走が楽しみ……ですね。
まぁとりあえずTYPE-MOONはまたもや完全新作を作ってくれないようです。うん。それはいいや。もう諦めたぜ。むしろ俺が問題にしたいのは、「今一番需要があるだろうタイトル・月姫」を無視し続けていることです。
「Fate」から入って、「Melty Blood」でおあずけを食らっている型月ファンを終始裏切りっぱなしですよね……。彼らの「月姫」欲は高まるばかりだろうに、再販もしない、リメイクもしない、だがメディアミックスだけは行う。漫画は順調に公刊されてますね。これひでぇ、酷すぎるよ!
7th expantionはメディアミックスしつつきちんと再販して原作は入手可能にしてるし、神主だって需要甚大な紅魔郷あたりは再版してんじゃん!! ……まぁ彼らは同人のままで居続けていますし、「商業」へとプラットホームを移してしまったTYPE-MOONはそれが出来ない、という事情もわかることはわかりますけれど。
それでも、です。TYPE-MOONの所行は、まるで月箱やら何やらの値段をプレミアによってつり上げようとしているかのように見えてきて仕方ないです。新しく商業作品を市場に投入するなら、「月姫」のリメイクをやるべきだと俺は思います。そのほうが消費者に対して誠実だと思います。熱狂的な需要がある作品を出さないままにしておいて、新しいものをどんどん投入するのは「金儲けのやり方」じゃないのだろうか? と思えてなりません。
こうして溜めて溜めて……Fateファンは既に三年は待っているだろうに、それでも「月姫」がプレイできない状況が続いて……
その先に「月姫リメイク」を発表すれば売れに売れるんでしょうかね。TYPE-MOONの意図通りに。最悪です。考えたくもない未来像です。ありえますけれど。
あと個人的にはさっちんシナリオを早く実装しろと声高に言い続けます。さーーーっちん、さーーーっちん!!!
つーかこの具合じゃあ「まほよ」が出た後でさくっと「まほよ・ファンディスク(仮)」が出て、まほよもらっきょも含めた格ゲーが出て、さらにミニゲームが付属した「まほよ」がPS2だかPS3だかに移植されて、その先に出てくるのは「氷の花」かもしれませんよねwwwwwwww
そしてDDDは以下続刊。
奈須きのこは既に創作意欲を「紙媒体で出せる」ノベルスの方面に使い尽くして、ゲームのテクストを書こうとはしないのかよう!!
ゲーム、小節ともに「出せば売れる」状況にあるんだし、下手すれば仕事しなくても食える程度の成功は収めているだろうから、意欲が減退するのは理解するのに難くないです。
「月姫」の頃のような創作の勢いを要求するほうがむしろ良くないのかもしれませんね。
それでも、です。これまでのメディアで行ってきたインタビューやら、設定集やらで既に言及してた「未発表作品」を「発表しなおす」だけが奈須きのこというクリエイターの仕事じゃないと思います。
新作を。
あの世界観を持つ奈須きのこでしかできない新作を作り続けていくことが、期待されているはずです。
もっちろん俺はTYPE-MOONが好きです。大好きです。追っかけです。けれどもこの姿勢は正直いただけない……いや、絶対に買うんだろうけどさぁ自分。でも、なんだかこう……ね。巧妙な「商売のうまさ」を見せるようになってきた「ブランド」としてのTYPE-MOONにちょっと切ないものを感じますね、マジで。
- ↑まで痛々しい誤解な。完全撤回な。
月姫リメイクとGirl's workも出るンですね……
月姫リメイクについては正直胸をなで下ろす思いです…………遅すぎるくらいだと思いますがね。
それでもやっぱり完全新作は出さないンですねきのこさん…………
……星空めてお氏には凄く期待してます。
一応自分の痛々しい誤解は晒しておきますねwwwwwwwwwww
これだから月厨はwwwwwと自分で久々に思いましたよwwwww
でも基本的に思うことは変わらないです。奈須きのこさんには、新作を作り続けてもらいたいです。ファンの一人として。今回の新作発表は、月姫リメイク・Girl's Workに関しては大賛成なのですが、ただ一点・「まほよ」に関してだけは少しがっかりしました。
勝手にブログ評論
http://onosendai.jp/hyoron/hyoron.phpに自分のブログをぶちこむとこうなる
*1フィッシュ&チップスなんて無粋だ。むしろ充足根拠律と頻出コードの組み合わせを試したい。それが粋というもの。
こういうときに限って驚くほどソロユニットが生きてくるものなのだ。少年よ、ソクラテスを見よ。少女よ、トワイライトを愛せ。愛と永積タカシは心の養分だ。
ではこのブログのなかで「法政大学出版局」や「レスポール」と呼ばれている物はなんなのか。このままでは徒党を組んで超越論哲学者軍団とでも言い出しかねない。実態は超越論哲学者愚連隊だ。
平成若者仕を中心とする考え方は、ファシズムである。
そもそも人はいかにして「*2ソロユニット」依存から脱却したのか。むかしからいわれていたことだが、超越論哲学者がそんなに大事なら、ヒュミドールにでも閉まっておけば良い。頻出コードなどという似非元SUPER BUTTER DOGなどアナログシンセほどの値打ちもないのだ。超越論哲学者を考える時、*3アナログシンセを忘れては居ないだろうか。
少なくともショーペンハウアー哲学はあって欲しい。
であるならば、
一度でもショーペンハウアー哲学の魅力に取り付かれた事のある者ならば、誰もが*4カント主義の気持ちを共感できる。そこで問題になるのが「Schopenhauer理解」大会だ。全く破廉恥にもほどがある。
本当だ。全く破廉恥にもほどがある。
知っていることは好むことに及ばない。好むことは楽しむことに及ばない。
ストア派やカント主義にみられるような禁欲的道徳・倫理は人間の人間性をある部分で凄まじく損なう。別にストア派やカント主義に限定しなくても良い。哲学の思想におけるある種の性質は、人間の人間性を大幅に無視している。食欲肉欲睡眠欲を切り離した状態で人間が生存できるかといえば、生物学的に考えて無理である。名誉欲・金銭欲・受容欲などの社会的欲求を切り離した状態で人間が存在できるかといえば、現実的に考えて無理である。楽しさから完全に遠く離れたところで「生きよ」と突然命令されたところで人間はそのように生きられない。生には楽しみが必要である。
飲まず食わず眠らず女犯もせず、という極限状況に自らを追い込み、幻覚かはたまた神秘体験か判然としないがとにかく何らかの直観を得ることを志向するならば、禁欲は良い方法であり、手段となるだろう。しかし、社会において働きつつ生きねばならないシホンシュギの時代に生まれてしまった我々は、そのような貴族にも似た生活はできない。また、僧侶のような修道生活もできない。せいぜい彼らの一部が残した説教集や著作などを目にし、その生活ぶりを想像し、理性を働かせることのまねごとができる程度である。私は自分の欲求を満たすために俗世に入り立ち回る。神経における閾刺激による反応と、経験により蓄積されパターン化された行動様式の束が動いているのではなくて、欲望の主体として常に活動している。理性を働かせて何事かを追求する以前に、意志と意欲にせき立てられながら活動しているのが人間・庶民のリアルな像なのだ。
西洋の思想は特権階級のものだ。このことは間違いない。理性を働かせる、という事態は、冷静に考えれば実に非現実的である。観想的生活ほど得難いものはない。アウグスティヌスすら、彼の求めた完璧な観想生活に入れたのはわずかな期間だった。まして修道生活どころか商業に基づいた生活を営む我々が、どうして理性を働かせることができようか。この一点において、あらゆる哲学は人間の生を無視している。哲学することに成功した人間というのは、*1逆説的なことだが、人間の生から若干離れざるを得ないのだ。
さて、西洋における哲学がいかに人間の生からかけ離れているかを論じたところで、少し論語に目を向けてみよう。
儒家による性善説では西洋倫理思想にも似た「共感」を原理とした道徳観が披瀝されている。惻隠の情を説く孟子などはまさにその典型であるし、孔子の仁が元々「共感」を基盤に置いているものだ。言うなれば、血縁関係を縦軸・共感原理を横軸にして編まれているのが儒家の道徳観であろう。キリスト教などの立場では超越的観点から「愛」が要求されて「共感」が原理となるだろう。ウパニシャッドでは個別化の原理を「マーヤーのヴェール」としてとらえるゆえに、マーヤーのヴェールを「まやかし」と看過し、真理を認識することによって「共感」が登場してくる。これら印欧語族の思想は、しかし、禁欲的・宗教的な実践としての意義を持ち、日常的な場面における欲望を度外視したものになりがちである。
人間は実際にあらゆる人間に対し共感し、無償の愛を注げるのか? 不可である。だからこそ理想像としてのキリストが想定されている。人間は実際に個別化の原理を超えて他者の苦しみを自身の苦しみとしてそのまま受け取れるのか? 不可である。歯痛の例えにもあるように。「個別の存在はどこまでも個別である」と時間・空間に規定された感覚が経験的な証明を与えてくれている。こうして列挙すると、共感の原理は観念的な理想であって、思想であって、現実には有り得ない事態であるように見える。しかしながら儒家による共感道徳はこれらと異なる。すなわち、人の「楽しみ」を肯定し、意志・意欲を肯定するのである。
「王、百姓と楽しみを同じくすれば、すなわち王たらん」「民の楽しみを楽しむ者は、民もまたその楽しみを楽しむ。民の憂いを憂うる者は、民もまたその憂いを憂う。楽しむも天下と共にし、憂うも天下と共にする」といった論語の言説は、君主と民という関係性に規定されてはいるものの、禁欲的な道徳原理とは異なる思想を示すものとして興味深く考えることができるだろう。
自・他の別を超えることを標榜している点においては、儒家の共感はウパニシャッド哲学のそれと似通っている。しかし、理性的・思惟的なものによって個別化の原理を超えるのではなく、むしろ意欲・意志・楽しむことを前提して個別化の原理を超える、という点では、印欧語族の共感原理と決定的に異なる性質を持っている。すなわち、ここでは意志・意欲が肯定され、現実における社会的生活の中で楽しみを共有する過程から共感が引き出されてくるのである。
もちろん孔子や孟子が完璧に社会をとらえていて、これらの思想が完璧であると断言するつもりは私にはない。結局当時において最大勢力を誇ったのは性悪説から派生した法家による法治国家であった。その法家の思想すら極論を言うならば空理空論である。しかしながら、「共感」という原理は主客の別・個別化の原理によって隔てられ、もはや相互理解の手段を完全に失い、言葉を持っているのに言葉を伝えられず、無言の空気の中で過呼吸に陥って死に体となっている人々がゴロゴロしている現代社会において、きわめて有用なものである。その「共感」を取り扱うとき、西欧の思想の方法のみを用いていれば、結局は貴族しか他人に共感することなんてできない、と結論付けずにはいられない状況に至ってしまうだろう。あるいは、不可能なほどの禁欲的傾向を要求されたり、宗教的神秘体験にも似た地平においてのみ「共感」が想定されたり、いずれにせよ現実性を大幅に欠いたものとなってしまうだろう。儒家の共感道徳は、西欧のそれに比べれば少しだけ人間の人間性を大切にしているように見えるし、そうでなかったとしても現在の視座からそのように読み・解釈することが可能である。今まで私たちはロゴスだけをもてあそびすぎたのかもしれない。パトスに目を向けなければ、人は人でなくなってしまう。人はロゴスのみに生くるにあらず、だ。